第12話「茶器のすすめ」

工芸品を語る上で欠かせないものといえば、酒器と並ぶものに茶器がある。陶磁器の急須・茶碗に始まり、銅製の茶筒、竹製の菓子皿に漆の棗など、様々な素材の工芸品がお茶に関わる道具として、私たちの日常の中で用いられている。私自身も一つ一つの工芸品を学ぶにつれ、お茶への興味が自然と深まってきた。 お茶は中国で生まれたものであるが、日本茶の歴史も長い。800年代には、遣唐師が中国よりお茶の種を日本に持ち帰ったとされ、その後、千利休が「茶道」を完成させ、庶民の間でもお茶が普及し始めたと言われているが、そこから現代までも400年以上の歴史がある。日本の美意識の一つとして語られることの多い茶道だが、様々な工芸品がその道を共に歩むことで、互いに影響し合い発展してきたと言っても良い。 私自身が茶器に興味を持つことになったきっかけは、佐賀県有田の李荘窯による宝瓶との出会いにある。宝瓶とは、取手がない茶器のことであるが、一般的には見慣れないこの茶器の美しさに引き込まれてしまった。宝瓶は、片手で持つものであり、玉露や煎茶など、低温でお茶を淹れるのに最適なものだ。傾けやすく、お茶の旨味が凝縮されている最後の一滴まで注ぐことのできるところにも特徴がある。宝瓶は、自らで使ってみるとわかるが、淹れるときの所作や動作を綺麗にしたい気持ちにさせる。最後の一滴を淹れるまでの間、背筋が伸び、呼吸を落ち着かせてくれ、心までもゆったりとした気持ちになる。 ギャラリーでは、急須の一大産地である常滑焼の茶器も取り扱っている。急須には、取手の位置が異なる「横手」「上手」「後手」という三つの種類があるが、横手型の急須というのは日本特有の茶器であることはあまり知られていない。中国茶は後手型が一般的とされる。常滑の茶器としては、急須を専門とした作り手である伊藤成二さんの作品を扱っているが、伊藤さんの朱泥の作品は色、形が共に美しく、見ているだけで惚れ惚れしてしまう。常滑で淹れていただいた伊藤さんのお茶は、伊藤さんの性格を映し出しているようで、柔らかく優しい味がした。こんなところも、お茶の魅力なのではないかと思う。 工芸の世界と同じく、お茶の世界もまた深い。緑茶の王様と呼ばれる玉露に始まり、抹茶、煎茶、焙じ茶など、丁寧に淹れて飲むと、それぞれが別の飲み物と言ってよいほどに個性を味わえる。また、お茶は、朝・昼・夜によっても、季節によっても、味わい方は異なり、茶器を含めたその組み合わせは、際限がない。私自身、お茶の世界にまだ足を踏み入れたばかりだが、長い時間をかけて、ゆっくりと学んでいきたいと思っている。 文:柴田裕介 作品:「S宝瓶 錆千段」/李荘窯 [...]

2020-04-27T00:53:35+00:002020/04/27|

第11話「工芸とサステナブル」

ここ数年、頻繁に世の中で使われるようになった言葉の一つに「サステナブル」がある。「持続可能な」という意味を持つこの言葉は、地球環境や社会問題に向き合うことの大切さを教えてくれ、日々の暮らしの中でも、耳にすることが増えてきた。しかし、あまりに多用されてしまっているがために、「サステナブル=環境に良いこと」という意味で安易に人々に伝わってしまっているような気配があり、自分なりに「工芸におけるサステナブルとは何か」を考えるようになった。 私にとってサステナブルとは、時の移ろいについて想いを巡らせることから始まる。今すぐに、地球環境や社会問題に対して深く考え何かを実践することは難しいが、まずは、昔の暮らしはどうだったか、そこから今ではどのように変化したか、これから先はどうなるのかと、時の移ろいに想像力を働かせることを大切にしたい。子供の将来を思えば、自分の怠惰な暮らしは是正したいと思うだろうし、親の時代を思えば、今の時代がどんなに恵まれているかを知ることができる。時代の変化の中で、生きるために本当に必要なものはごくわずかであるが、人として生きている限り暮らしの進歩を追い求めたくなる欲もある。そんな相反するものを上手に調和させながら、社会全体のことを考え行動することが、サステナブルの第一歩であろう。 工芸品は、時間をかけて作り上げ、時間をかけて使い込んでいくものだ。私自身は、唐津のぐい呑や、開化堂の茶筒、上質な柿渋染の革財布などは、静かに経年変化を楽しんでいる。使い込むうちに、愛着は増し、やがては自分と一心同体のものにすらなる。そんなところにこそ、工芸の世界のサステナブルが見え隠れする。工芸品の経年変化を通じて、時の変化を意識し、そこに一つの美意識を生み出す。長く文化が繋がれてきた島国の日本ならではの考え方でもある。今の時代が良いものであれ悪いものであれ、変化していくことを意識することができれば、その道は明るい。まずは、今このときだけのことを考えるのをやめ、昔や未来の暮らしを想像してみる。それは、工芸を通じて広がる世界の一つであろう。 天然素材を主とする工芸品であるが、そうであるからサステナブルだというのは、一つの側面でしかない。工芸品は、素材としては天然のものであっても、簡単にリサイクルをしたり、すぐに土に返るものでもない。物を作ることは、人の生きる証でもあり、簡単に手放すことのできるものではないが、だからこそ、その一つ一つを手に取り、愛着を持つことがまずは大切な一歩になる。また、時代の波に流されることのない息の長い魅力が詰まっていることも、工芸の価値の一つであろう。石器時代の暮らしに戻ることはできないが、祖母が大切に使っていた帯を次の時代に繋げることならできる。そういうことが、私にとってのサステナブルなのだ。 テキスト:柴田裕介 作品:「柿渋染 長財布」/ブルックリンミュージアム [...]

2020-04-27T00:53:43+00:002020/03/27|

第10話「不揃いの中の美」

現代の工芸品の魅力の一つは「不揃いであること」と言って過言ではない。陶磁器であればろくろや窯変、木工品であれば木目、色糸であれば草木染めなどによって、世に二つとないものが生み出される。世の中は、大きく進歩し、画一的なものに囲まれた暮らしが当たり前になった。そんな中で、一点一点異なる工芸品というのは、特別な意味を持つようになってきた。 不揃いではあるが、不出来ではない。それが工芸のあるべき姿であろう。工芸の世界では、右が左に比べて優れているか劣っているかという価値基準があるわけではなく、あくまで個々一つ一つが美しいかどうかが求められる。もちろん、ガラスのコップであれば、気泡が多くあれば不具合品とみなすこともあるが、それ以上に触れ心地や飲み心地が良いかどうかが作品としての価値を大きく左右する。 私はデザインの経験があり、白紙の上の線が縦に真っ直ぐであるかどうかや、文字が真ん中にあるかどうかをすぐに気づくことができる。頭の中に「違和感のスイッチ」があるといっても良いかもしれない。ただ、工芸品を見て、二つの違いが気になるかというとそういうことはない。おそらく、一般の人々のほうが、そうした違和感に敏感だろうと思う。人も同じだが、隣と比べて良いか悪いか、どれほど揃っているかどうかという議論はさほど心地の良いものではない。不揃いであっても、そこに個別の美しさがあるかを見極められるかどうかが審美眼ではないかと思う。 ただ、工芸の世界において、手仕事だから、この程度で良いだろうという妥協も好ましくはない。大量生産品が主流を占める時代に、不揃いなものに価値を見出してもらうには、大量生産品には、負けない魅力を込める必要がある。不揃いであっても、個々の美を自信を持って語れるかどうか。そこに工芸としてのこだわりが必要なのだ。 現代の暮らしにおいて、無垢材の家具は贅沢なものになり、オートクチュールのドレスは希少になった。工芸品も同じく、その差異は小さくとも、世に二つとない個性を潜めている。それはつまり、作品一つ一つに向き合うことであり、その一つが壊れたら悲しいと思うことであろう。そんな気持ちが、物を大切に使うことの第一歩なのだ。 テキスト:柴田裕介 作品:「信楽 茶椀 」/澤克典 [...]

2020-04-27T00:53:14+00:002020/03/16|

第9話「ワインと工芸品の共通点」

ワインについて、それほど多くの知識があるわけではないが、葡萄の種類や産地の特徴、ヴィンテージの存在など、ワインのことを深く知るにつれて、ワインと日本の工芸品には通じるところがあるのでないかと思うようになった。 ワインは、「天・地・人」によって生まれると言われることがある。この「天・地・人」という言葉は、ブルゴーニュ在住の日本人醸造家である仲田晃司氏が使用した言葉であり、ワインというものは、気候という天の恵があり、土という大地の特徴があり、そこに人の知恵や技術が加わり、生み出されるということだ。「天・地・人」その全てが上手に組み合わさることが最高のワインの条件とされる。海外では「Terroir(テロワール)」という言葉もあり、こちらは地理や気候による土地の特徴を言い表した言葉である。工芸品にも、「天・地・人」や「Terroir」という言葉と同じような性質がある。土地の風土やそこにしかない素材に、人の技が加わる。それら全てが組み合わさることが、美しい工芸品には欠かせない。 ワインは、歴史深く、世界で最も愛される国際的な飲み物の一つだ。5大シャトーのようなワインであれば、美術品と同じような値がつくこともある。ワインがこれだけ世界中の人々を魅了するのは、単純な葡萄の味だけではないだろう。たった一本のワインから、天地の恵みや時の移ろいを感じるところに、その奥深さがある。また、そうした土地や年代の特徴を知ることで、味の違いがわかるようになり、ワインを飲むたびに、どこかを旅するような気持ちにさえなることが、人々を虜にする。 工芸も同じで、私自身、磁器と陶器の違い、木材の違い、産地の文化・歴史など、産地を歩きながら少しずつ蓄えた知識・経験によって、工芸品だけでない物事全般の見方・捉え方が広がってきた。今まで、存在すら意識しなかったグラスは、今では水をも味わう道具となり、暮らしの価値を大きく変えてくれた。その変化は、私の中では、とても大きなことだ。ワインに興味を覚えたのもほぼ同時期であるが、残念ながらまだワインの産地には訪問したことがない。世界の産地を歩いてみたい。そんな夢も膨らんでいる。 日本でもワインの人気は年々高まっており、ワイングラスに取り組む工芸メーカーも増えてきた。意外な接点がありそうなワインと日本工芸。これから先の一つの工芸の道となるのかもしれない。 テキスト:柴田裕介 作品:「たおやか ワイングラス 」/百色 [...]

2020-04-27T00:53:03+00:002020/03/12|

第8話「美術品と工芸品の違い」

ギャラリーでは、工芸品を取り扱っていることをお客様に伝えると、美術品との違いを聞かれることがある。工芸品も「美術工芸品」と称されることがあり、美的価値があるという点で、大きくは美術品の一種であるが、一般的には、美術品というと鑑賞目的が強く、絵画や彫刻のことを指すことが多い。 一方、工芸品は実用性が重視され、「暮らしの道具」であることが基本となる。例えば、漆器の汁碗であれば、どんなに加飾が施されたものであれ、汁椀として使用することを想定して作られている。今では、芸術的価値の高くなった抹茶椀や九谷の赤絵作品などは、時に実用性を度外視した作品もあるが、それは本質的には工芸品とは言えず、美術品と呼ばれることになる。鑑賞的な美しさも併せ持つが、使うことで育っていくのが、工芸品の最大の魅力なのである。 また、工芸品は、「伝統工芸品」や「雑器/雑貨」と呼ばれることがある。私自身は、このギャラリーを始めるときに、「伝統」という言葉と「雑器/雑貨」という言葉を極力使わないようにと心に決めた。器や織物を取り扱う日用品店は時に「雑貨屋」と呼ばれるが、丹生込めて作られた品を雑貨と呼ぶことには大きな抵抗がある。また、伝統的であることばかりに重きが置かれ、今の暮らしに合わない品を売り込むことにも違和感がある。そしてまた「アート」という言葉も多用することを避けるべきだと考えている。英語では「Art」という言葉は多義的であり、芸術作品だけでなく、精神性や生き方をも含むものであるが、日本での「アート」という言葉は、やはり見た目の「芸術性」という意味合いが強く感じられ、工芸の趣にそぐわない。 その点では、かつて柳宗悦氏が民藝運動の中で「用の美」という言葉を用いたのは、工芸の世界に置いて、何よりも重要なことであった。工芸というものに新たな命を吹き込んだと言ってもいい。さらに、現代の工芸は、人が生み出すものでありながら、自然や地域性との接点が欠かせないところに、美術品とは異なる面白さがある。自然と共生した地域でのものづくりが当たり前だった時代から、時代は大きく移り変わり、日本の地方文化の奥深さが再認識されようとしている。 個人的には、美術品であれ工芸品であれ、どのように解釈しても、どのように使用してもかまわないと思っているが、「工芸」という言葉の本質を深く追求していくことで、作品の見方・捉え方が多様になることは、多くの人に知ってもらいたいと思っている。私たちは、デジタルのものに囲まれ、全ては数学のように、正しい答えがあることに慣れすぎてしまっている。自然の領域は曖昧であり、答えは人が導き出すものでないからこそ、そこにわかりきらない気づきがある。工芸品は、一人の人間による一作品ではない。全ては連なりの中から生まれているところに、捉えきれない美が潜んでいるのだ。 テキスト:柴田裕介 作品:「金襴手彩色 陶筥」/錦山窯 [...]

2020-04-27T00:52:57+00:002020/03/07|

第7話「酒器の魅力」

近年、海外では日本酒の人気が高まってきている。日本の和食文化の広がりとともに、「酒=Sake」や「ぐい呑=Guinomi」に詳しい外国人も増えてきた。酒器は茶器と並び、「用の美」を代表する工芸品の一つであり、多くの方に日常で使ってみていただきたいと思っている。 酒器には大きく分けて「盃」「お猪口」「ぐい呑」とがある。「盃」は中心が窪んだ皿状のもので、「お猪口」はお酒を飲むための小さな器のことを呼ぶ。「ぐい呑」はグイッと飲むことからぐい呑と呼ばれ、一般的には猪口よりも少し大きめの器のことを指す。日本酒を注ぐ道具としては「徳利」と「片口」とがあり、海外では徳利を用いて熱燗でお酒を飲むことが少なく、冷酒に使いやすい片口のほうが一般的だ。 酒器といえば、「備前の徳利、唐津のぐい呑」という表現がある。焼締による窯変の力強さが特徴の備前焼と、陶器として絵唐津、朝鮮唐津、皮鯨など様々な技法のある唐津は、どちらもどこまでも深い魅力を持っており、長く人々を魅了してきた。酒器は、焼締や陶器以外にも、磁器、ガラス、漆器に錫など、様々な酒器があるが、酒器はお酒との相性があり、お酒によって酒器を変えてみるのも楽しい。冷酒か熱燗か、純米か大吟醸か、辛口か甘口かなど、どの酒器を選ぶかによって、お酒の味わいが大きく変わってくる。例えば、純粋にお酒の味を楽しみたい方には、薄手の白磁のお猪口や装飾のないガラス製のシンプルな酒器をお勧めしたい。装飾を施していないものは、お酒の味に集中することができる。反対に、酒器の質感もあわせてお酒を楽しみたい方は、陶器のぐい呑や切子の作品などが良いだろう。特に、唐津や志野、織部などのぐい呑は、溶けた釉薬が絶妙な風合いを出し、呑む楽しさと眺める楽しさを同時に与えてくれる。舌触りを重視する方は、輪島塗の漆器や木製の酒器も試してみてほしい。 日本酒は料理と合わせていただくのも良い。フレンチやイタリアンなどでも良いが、やはり四季の食材を活かした和食と共にいただきたい。豪華な料理でなくても、日本には様々なおつまみがあり、それに合わせて、季節の日本酒をいただくのは、旬の贅沢と言える。酒器は、日本酒によっても、料理によっても、変化が楽しめ、その組み合わせは無限に広がる。ギャラリーには、酒器やぐい呑を集めるのがお好きで、定期的に足を運んでいただくお客様もいる。一点の酒器を愛し続けるのも良し、様々な酒器を買い揃えて使い分けるのも良し。工芸品を通じて、酒器の深い世界に足を踏み入れて見て欲しい。 テキスト:柴田裕介 作品:「暁(白)徳利/ぐい呑」/徳永榮二郎 [...]

2020-04-20T06:25:53+00:002020/02/01|

第6話「木地の山中」

「木地挽き」と言えば、石川県の山中温泉が思い浮かぶ。ろくろを用いながら、木を削り出して形を作っていく「木地挽き」は、円形のお椀(椀物)に最適な技法だ。キーンと大きな音を立てて削り出していく姿は、迫力があり一見の価値がある。石川県の漆器は、「木地の山中、塗りの輪島、蒔絵の金沢」と表現されることが多く、山中で生まれた木地は、山中漆器のためだけでなく、輪島や京都など、日本各地の漆器の産地にも供給されている。 山中の木地の最大の特徴は、「縦木取り」と呼ばれる木の取り方にある。木取り(きどり)には、縦木取りと横木取りとがあり、縦木取りは輪切りにしたのちに垂直方向に木を切り抜く方法で、横木取りは木を横にした状態で切り抜くという違いがある。横木取りは最大限に木を活用できることが特徴である反面、強度に欠点がある。一方、縦木取りは、木が育つ方向に逆らわずに木取りするため、変形が少なく、それが薄挽きを可能とする。また、山中の木地挽きは、細かな削り出しを行うことで模様を生み出し、加飾を施すこともできる。「加飾挽き」と呼ばれる山中の技法は日本一と称され、その技の数は数十を超えるとも言われる。その一つに「千筋」と呼ばれる木に細かな筋を入れていく技法があるが、測りを用いず、目視のみで、精密な筋を入れていく技には、驚きを隠せない。 こうして出来上がる木の器だが、用の美としての楽しみは、やはり実際の木目を楽しむことであろう。ギャラリーでは、木製の作品をご購入いただくと、在庫が複数ある場合、在庫品の中から、お好きな木目のものを選んでいただく。これはお客様に木目の多様さを感じていただく大切な時間だ。いくつかの木目の違いを見ていただくことで、自然の豊かさを感じることができるし、その中から選び抜いた品には、特別な愛着を持っていただくことができる。 日本の食文化では、味噌汁や吸い物などの汁物が欠かせず、汁椀の存在はとても大きなものだ。また、日本の汁物は、手にとって食す料理であることから、手に馴染む形状のお椀は欠かせない。陶器の手触りも心地良いが、汁物をいただくときの木椀の温もりは、心まで染み渡り心地よい。木目を眺め、手にお椀を取り、温かな汁をいただく。木地師から生まれた木椀ならではの楽しみ方がそこにはある。 テキスト:柴田裕介 作品:「MATEVARI」/我戸幹男商店 [...]

2020-02-10T00:41:32+00:002019/12/16|

第5話「工芸における侘び寂び」

工芸品は、「実用的でありながら、芸術的な意匠があるもの」とされ、日本の工芸品は、日本の美意識とは切っても切れない関係にある。日本の美意識の一つである「侘び寂び」は、海外にまで知れ渡っている日本語の代表的な言葉の一つであり、工芸の世界においても、たびたび用いられてきた。 「侘び寂び」は、もともとは禅の概念の一つであったが、千利休の茶の世界に触れたことで、後世にまで長く語り継がれるようになった。「詫び」とは、貧粗・不足な中に美を見出そうとすることであり、「寂び」とは古いもの、静かなものに趣を感じることとされる。例として、日本庭園の様式の一つである「枯山水」は、侘び寂びを感じさせる作品の一つと言って良いだろう。 私にとっての「侘び寂び」といえば、真っ先に陶器の抹茶碗が思い浮かぶ。釉薬の隙間から垣間見える土の表情は、再現不可能な偶然性を帯びていて、見ていて飽きることがない。手漉きの和紙からも同じような印象を感じることがある。「侘び寂び」というのは、作為的なものでなく、どこか自然に委ねる部分があってこそのものであり、自然豊かな日本らしい美意識であるのだろう。 海外では、「侘び寂び」という言葉は、日本を表す代表的な言葉の一つとして浸透している。豪華絢爛なものこそ豊かさの象徴だとする考え方に対し、日本の「侘び寂び」は特異な存在であり、その独特さが今、世界から再度注目され始めている。経済が成長しているときには、人々は前を見て、煌びやかな世界を追い求めるが、経済が成熟すると、その意識が変化し、地に足のついた暮らしを意識するようになるのだろう。向上心や虚栄心から逃れ、落ち着いた暮らしをしたいという願望には、日本の「侘び寂び」は静かに寄り添うことができるようにも思う。 侘びているもの、寂びているもの。それらは、余白にある美を見つけるための審美眼を要する。人生の経験とともに、時間をかけて身につけていくものだからこそ、焦らずゆっくりと向き合うものなのだろう。 テキスト:柴田裕介 作品:「萩茶碗」/ 田原崇雄 [...]

2020-04-20T06:25:14+00:002019/10/30|

第4話「工芸の職人と作家」

私たちは、日本各地の工芸メーカー・作家との繋がりを持つが、工芸の世界では、「職人」と「作家」を区別して語ることが多い。一般的には窯やメーカーの企画品を作り続けるのが「職人」であり、自身の名で個展を行い、それを生業とするのが「作家」とされる。特に、陶芸の場合、窯元での作品と個人名での作品を区別することが多い。 かつて、柳宗悦が掲げた「民藝」という思想は、職人のものづくりに美を追い求めたものだ。職人は、分業化された仕事が与えられ、無名のまま、ただひたすらに与えられた場で技を磨くが、民藝という言葉には、その毎日の継続したものづくりの中に、日本らしい簡素な美が生まれていくという意味が込められている。作家は、個人の表現を追求するものであり、そうした分業化された継続的なものづくりとは対極にある。 私が産地を訪れるとき、たびたび感激するのが職人の直向きな姿だ。工場の大量生産品とも違う、美意識が求められる仕事の中で、繰り返し、絵付けや施釉などを真剣に行う姿・表情は、ただただ美しい。職人によって技量の差はあれど、みな一つでも良いものを共同で生み出そうと、小さな創意工夫を続けている。 作家にも職人とは異なる魅力がある。工芸作家は、その土地での暮らしを愛し、そこから自身の表現を追求していくことが多いが、その熱量は作品そのものへの力となり、大きな魅力ともなる。ギャラリーでは、作家物を扱うことも増え、作家本人とお話しする機会も増えてきた。私は日々「作家物には力がある」という表現をするが、色や形、名称に至るまで、個人の想いが強く染み渡っており、彼らの生み出す作品は、その存在感に圧倒されることもしばしばある。 職人であれ、作家であれ、想いを込めたものづくりであることに変わりはなく、その共通する工芸の美しさを伝え届けていきたい。これからの時代に向け、失われてはいけないものが、そこにはあるような気がする。 テキスト:柴田裕介 作品:「鉄鉢 金彩」/杉田明彦 [...]

2020-04-20T06:24:41+00:002019/10/17|

第3話「塗師の世界」

漆器の産地に行くと「塗師(ぬし)」という言葉を耳にする。木地を作る人は「木地師」、蒔絵を行う人は「蒔絵師」とも呼ばれ、分業されていた時代の呼び名が色濃く残されている。「木地師」も良い響きだと思うが、「塗師」という言葉は、より重々しく聞こえるのはなぜだろうか。塗師の多くは、畳の上で胡座を組みながら作業をしているのだが、そんな姿が日本の職人らしさを引き立たせているということもある。 日本には陶磁器同様に、様々な漆器の産地がある。「輪島塗」や「山中漆器」は日本人なら誰しも一度は耳にしたことがあると思うが、「越前漆器」「根来塗」「木曽漆器」「津軽漆器」などもある。漆器作りは、漆を乾かすため、適度に湿気があることが必須であるが、木目を活かした塗りの山中漆器と、何層も漆を重ねる輪島塗とは作風は大きく異なるし、高岡のように螺鈿細工を施すことを得意とする産地などもあり、その表現は各地によって様々である。 いずれの漆の産地にも「塗師」はいるが、個人的に「塗師」という言葉で浮かべる産地は石川県の輪島だ。木地に布掛けをし、そこから何層もの漆を重ねていく輪島塗の技法は、現代の効率化社会とはほど遠い工芸品だが、その艶ややかな表情と手触りは、芸術的だ。私が以前にお話をした輪島の塗師である塩士さんは、下地の塗りは他の職人にも任せるが、最後の仕上げの塗りは全てご自身で行うという。塗師としてのこだわりであり、塗師としての生き様なのだと、心を打たれた。 私が工芸を通じて気づいたことの一つは、日本人は時間をかけて丁寧に作ることが得意であり、手間暇をかければかけるほど美しくなる工芸品はとても向いている。輪島の塗師という仕事はその最たるものであろう。輪島に限らず、漆器の産地の塗師の仕事にぜひ目を向けてみてほしい。特に、漆器のお椀は、手に持った際の手触りも十分に考えて作られている。塗師の仕事を手で感じることのできる特別な瞬間なのだ。 テキスト:柴田裕介 作品:「綿糸片口 / 綿糸ぐい呑(朱)」/藤八屋 [...]

2020-04-20T06:24:08+00:002019/10/14|