日本料理とうつわ

新たな土地を訪れるたび、その土地ならではの料理に出逢う。食というのは、国や土地ごとに異なる文化があり、さらには一つ一つの家庭にもそれぞれの味がある。日本には日本料理があり、日本各地の風土やおもてなしの精神とともに、外国人にとって日本への旅行の際の大きな魅力の一つとなっている。 料理は、うつわに盛りつけて食べるものである。ただ栄養のために食すだけなら、調理した鍋からそのまま食べても良いのだが、うつわに盛りつけるという行為は、人々の食事にとって大切なものなのであろう。日本のうつわは、陶磁器や漆器、ガラスに金工など、さまざまな素材からできていて、うつわへの盛りつけにも、独特の美学が備わっている。 日本料理は引き算 日本料理の美学は「引き算」をすることだと言われる。日本料理というのは、えぐみや臭みを引く下拵えを丁寧に行うことで、素材そのものの香りや味を最大限に引き出すことを特徴とする。出汁についても「出汁を引く」という言葉があるように、昆布や鰹節などから旨みを引き出すことが重要とされている。 料理における引き算という考え方は、フランス料理のように、ソースを足すことで味に深みを与えていく料理とは大きく異なる点である。季節ごとに新鮮な食材が豊富に手に入り、素材の味を楽しむことを基本とする日本料理ならではの美学とも言える。 一汁三菜 日本料理においては、「一汁三菜」という言葉があり、米と汁ものを基本として、魚などの主食に副菜を二点添えることを言う。一汁三菜は、もともとは本膳料理の一形式であったが、家庭料理においても、日本人にとっては親しみ深い食卓の風景となっている。 この一汁三菜という形式は、大皿から取り分ける食事とは異なり、日本らしいうつわの文化も育んできた。向付(むこうづけ)という言葉は、懐石料理で出される刺身や酢の物のことを意味するが、飯碗や汁椀の向こう側に置かれるために「向付」と言われる。この言葉は、料理だけでなく、うつわのことも指し、向付にはさまざまな色や形のものがあり、向付には料理人や使い手の個性が表れやすい。 また、日本は四季があることで、衣服だけでなく、うつわにも季節ごとの衣替えがあり、料亭では季節が変わるたびにうつわを変えるのが一般的であり、日本らしいうつわの文化と言えるであろう。夏にはガラスや青磁のうつわ、冬には漆器が合う。酒器も、暖かい季節には薄手の片口が良いが、冬にはやきしめの徳利を楽しみたい。現代の暮らしでは、一年は季節を楽しむ余裕もなく、あっという間に過ぎ去っていくが、食卓にうつわの変化を取り入れることで、単調な暮らしに彩りを与えることができる。 うつわは料理の着物 [...]

2023-06-30T10:21:46+09:002023/06/30|

ギャラリーの仕事

あるとき、ふと立ち寄ったお店で購入したうつわ。使い心地が良く、その後、何年も使うことになった。そんな経験はないだろうか。 私が日常で使っているうつわの中にも、そんなうつわがある。思い起こせば、お店の店員が、それぞれのうつわの違いを説明してくれ、そこから、自分の好みにあったものを選んだのだった。あのときの店員さんの説明がなければ、このうつわを買うこともなかったのだと、不思議な縁を感じる。 私たちギャラリーというのは、こうした「縁」を繋ぐことを仕事としている。ギャラリーにとっては、数多くのお客様の一人であっても、お客様にとっては、一つ一つの工芸品との出会いが、特別なものとなることがある。作り手と同じように、使い手にもそれぞれのストーリーがあって、それらを繋ぎ合わせることが、私たちギャラリーの大切な務めなのだ。 日々の仕事 日々の仕事において、基本となるのは、ギャラリーの掃除だ。作品が心地良く並んでいるかを、毎日確認する。うつわの多くは、手に持ち、口につけるものであり、常に清潔さを保たなければならない。仕事に身が入らなくなると、まずはこの掃除が疎かになっていく。掃除は、その場所をきれいにするだけでなく、自らの心を落ち着かせることにも繋がるものであり、常に意識して行う必要がある。 また、ギャラリーには、頻繁に新しい作品が届くのだが、それらの一つ一つに関心を持ち、丁寧に向き合うことも大切だ。私は、自分自身で作品の撮影をするが、その時間を通じて、作品にじっくりと向き合うことができる。どこから見たら美しいか、どのように使ってもらいたいかなど、作品一つ一つの個性を確かめながら、いろいろな思いをめぐらせる、私自身にとって好きな時間でもある。 作り手のバトン 私たちのギャラリーの仕事は、「ストーリーを伝える仕事」と、よく説明される。確かにその通りで、私たちは良い「語り手」でなくてはならず、作り手や物の知識を学ぶだけでなく、姿勢や話し方なども磨き続けなくてはならない。 また、私たちは、作り手の「少しでも良いものを作りたい」という気持ちを、バトンとして受けとっている。一つずつ人の手で作られたものだからこそ、丁寧に包み、袋に入れ、直接手でお客様にお渡ししたい。そして、お店から出るまで、きちんと見送り、挨拶をする。そうした一つ一つのことに、「気持ち」というのは込められていて、ようやく作り手のバトンは心地良くお客様に渡っていく。 作り手と同じ熱量で [...]

2023-02-23T17:28:10+09:002023/02/23|

やきものの景色

煙が静かに立ち登り、薪窯から引き出された茶碗やぐい呑がずらりと並ぶ。その一つ一つは、釉薬が美しく溶け、見事な景色を生み出している。手に取り、じっくりと眺めれば、どこか別の土地を旅しているような、そんな気持ちになる。 陶芸の世界には「景色」という言葉があり、窯での焼成によって、胎土に釉薬が絶妙に被さり、実在する風景のような表情が生まれることがある。風景だけでなく、絵画や音楽、詩などが思い浮かぶような表情もあり、その感じ方や言葉での表現にも、鑑賞の魅力というものがある。美しい景色もあれば、薄暗い景色や深く考えさせられるような景色もある。この「景色」という言葉は、筆で描かれた絵付け作品や漆器、ガラス作品などには用いられず、釉薬表現を活かした陶磁器ならではの楽しみ方であると言える。 炎が生む景色 なぜ、やきものの表情を「景色」と呼ぶようになったのかは定かではないが、多くのやきものを見ていると、不思議とそのような言葉で表現したくなるものだ。茶の湯が生まれた時代には、当時、雑器とされていた器は、茶碗に見立て用いられた。そんな茶の湯の世界では、不完全のようにも映っていた罅や目跡を、何らかの景色と見ることで、特別に愛でたのであろう。 自然の景色は、太陽光の加減によってその表情が変化するが、やきものの景色は、炎によって生み出される。窯の中の予期しない変化は「窯変」と言い、釉薬の流れだけではなく、焦げや灰のかかり方によっても、異なる景色を見ることができる。手仕事と炎の共同作業による半自然美が、この「景色」という言葉に集約されている。 やきものの景色の楽しみ方 やきものの景色を楽しむには、置いて眺めることと、手で持って眺めることの二つの楽しみ方がある。置いて眺めるときには、光の当たり方にも注意したい。自然光でも、部屋の灯りでもよいので、作品を動かしながら、自分が最も美しいと感じる場所に置いてみてほしい。置いたときに、最も景色が印象的なのは、「胴」と呼ばれる側面の部分である。作家は、窯の中の置く位置や置き方によって、炎や灰がどのように作品に影響するかを考えながら、作品を焼く。狙い通りであることもあれば、予測しない窯変が偶然に起こることもあり、ここにやきものの神秘さがある。 手に持って鑑賞するというのも、工芸品ならではの楽しみの一つでもある。持つときには、やはり見込みと高台を眺めてみてほしい。碗の内側を意味する「見込み」は、抹茶や酒を入れると、違った景色が浮かび上がってくるときがある。特に、抹茶を入れたときに浮かび上がる景色には、「茶映り」という言葉があり、これは抹茶の色と見込みの色の調和や対比を楽しむものだ。また、高台は、やきものにとって、秘境のようなものでもある。名画の中に隠された秘密のサインのように、作り手の美意識が静かに埋め込まれていることが多い。 景色とは、見るものではなく、感じるもの 日常の中で景色を感じるのは、どんなときであろうか。一つは旅先であり、もう一つは日常の中のふとした瞬間であろう。旅に出ると、普段見ることのない景色が広がり、見るもの全てが美しく感じることがある。自然の風景だけでなく、街並みや行き交う人々の様子ですら、一つの景色のように見えることだろう。これこそが、旅の醍醐味であると言える。 [...]

2023-02-25T13:52:09+09:002023/01/24|

暮らしの所作

茶葉を眺めながら、宝瓶の蓋を静かに持ちあげ、そしてまた閉じる。閉じられた宝瓶を、利き手で包み込むように持ち、ゆっくりとお茶を注ぐ。 私は、この一連の所作が好きなのだ。所作への関心は、宝瓶というものに出逢い、気づいたことの一つでもある。東京ギャラリーのオープニングイベントの際、お越しになった方々に、櫻井焙茶研究所の店主である櫻井さんご自身に宝瓶でお茶を淹れていただき、その美しい所作に目が釘付けになった。私自身は、決して日常の姿勢や所作は美しいとは言えないほうなのだが、お茶を淹れるときだけは、櫻井さんの所作を思い出しながら、背筋を伸ばしていたい気持ちになる。 工芸品は美しい日常の道具であり、その「美しさ」には、使う際の所作も含まれている。蓋の開け閉め、お椀の持ち方、織物の畳み方、その一つ一つに、固有の美しさがある。どんなに美しい工芸品であっても、乱暴に扱ってしまっては、その美しさは台無しになってしまう。物の形はもちろんだが、陶磁器、漆器、ガラスなど、素材によっても触れ方は微妙に異なり、その違いがまた、工芸品の面白さでもある。酒器は、形や素材さまざまだが、片手で握り込むように持つのが似合うぐい呑もあれば、両手で丁寧に持ちたい盃もある。物や場面に適した持ち方があり、そうしたことに意識がいくようになると、日常に奥ゆきが生まれてくる。 所作を美しくするには、呼吸についても意識を向ける必要がある。私は「深呼吸」という言葉が好きで、頭の片隅に常に置いてある言葉の一つでもある。仕事に行き詰まったとき、考えがまとまらないとき、そして心が落ち着かないとき、椅子から離れ、一度外に出て、深呼吸をする。大きく空気を吸い込むことで、身体の隅々に酸素が行き渡る気がする。お茶を淹れるときには、茶葉が開くまでの数分間だけは、何もせず、呼吸を落ち着かせ、茶葉が開くのを眺めるようにしている。そうすることで、気持ちが少しずつ静まっていく。美しい所作の始まりには、心の静まりが不可欠でもある。 現代の暮らしの中には、デジタルの製品が溢れ、ボタンひとつで何もかもを動かすことができるようになってしまった。今では、何にも触れることなく、自動で扉は開き、電気すらついてしまう。そうした暮らしでは、人の細かな動作は少なくなり、所作を感じる機会も少なくなってしまった。日本の昔ながらの旅館では、仲居さんが、綺麗に襖を開け閉めし、挨拶をしてくれる光景があった。襖への指先のかかり方一つにも気持ちが込められ、そうした所作にこそ、日本らしい美というものがあったのだろう。人の所作というのは、物や道具との関係の中で育まれてきたものであったはずで、生活が変われば、必要な動きも変わっていく。それは仕方のないことだが、人が暮らしと共に長く積み上げてきたものは、工芸品そのものだけではない。工芸品を用いることで生まれた、人の所作でもあったのだということを、私たちはしっかりと伝えていきたいと思う。 文:柴田裕介

2022-11-17T11:41:07+09:002022/11/17|

暮らしの中で手を使うということ

人にとって、手を使うというのは、どういうことだろう。手で触れることで伝わるものは確かにあるし、手を使うことでさまざまなものを作り出すこともできる。文字を書くこと、服を縫うこと、楽器を弾くこと、料理をすること、そして陶磁器や漆器を作ること、それらはすべて手を使うことから始まっている。 タッチレスに向かう現代 ここ最近、日常で手を使うことの大切さを考えるようになった。きっかけは、新型コロナウイルスの出現により、ソーシャルディスタンスが推奨され、あらゆることが自動化やタッチレスに向かっていることだった。タッチレスでの決済や音声での入力はとても便利で、後戻りできるものでは決してないが、ふと気づくと、一日で手を細かく動かしているのは、パソコンとスマートフォンを使っているときのみという生活になってきている。このままいけば、手をほとんど使うことなく、一日を終える日も来るかもしれないとすら思う。 電子書籍と紙の本 人は手で道具を用いたことで脳が発達し、言語を獲得した。手を用いることは、それだけ人間という動物にとって、とても重要なことであったはずだが、私たちの現代の暮らしは急速に変化をしてきている。世の中は、さまざま技術で快適さや便利さを実現していく一方で、本来人に備わっていた手の感覚や能力がどこか置き去りにされているのではないだろうかと思う。例えば、電子書籍と紙の本。電子書籍は大量の本を持ち運べ、翻訳機能などもついた優れものだが、脳科学の世界では、紙の本のほうが記憶に残りやすいことがわかってきている。紙に触れながら読むことで、五感全体で記憶しているのだろう。学校の授業も、パソコンを用いた授業に変わってきているだけでなく、オンライン化も急速に進んだが、教育現場ではこうした変化による子供の学力の低下を心配する声もあるという。オンライン授業の利点は多いにあると思うが、一方で、身体や五感を用いた学習の大切さも、同時に浮き彫りになってきている。 うつわの手触り 食事の際の食器にも同じようなことが言える。自動で作られたプラスチックのお皿よりも、人の手で作られた天然素材の陶磁器や木のうつわで食事をしたほうが、印象に残りやすい。もちろん私自身がうつわが好きで、そこに意識が向かうこともあるだろうが、食事というのは、ただ味を楽しむだけのものではなく、手で触れることで、より一層その時間を味わい深くすることができる。お皿に独特の手触りや重さがあると、手が刺激され、それが記憶や感情に繋がっていくのだろう。特に日本の食文化は、お椀や鉢を手に持ちながら食べるため、食器の素材や形の良し悪しがとても大切になってくる。子供に天然素材のうつわやお箸を持たせるのは、食事に温もりを与えるだけでなく、手の感覚を養うことにも繋がっている。 私は、今年に入ってから、紙のノートに文字で日記を書くようになった。仕事では、パソコンやスマートフォンを活用してしまうが、私生活では手を使うことを意識し始めている。また、長く続いている毎日の日課の一つは、朝にドリップ珈琲を淹れることなのだが、手作業なので、同じ豆でも毎日少しずつ味が変わる。朝に淹れたてのドリップ珈琲を飲むととても気分が落ち着くが、手を使って淹れることで、ほんの少しの手や頭の運動になっているような気もする。他にも、抹茶を点てたり、絵を描いたり、楽器を弾いたりというのも良いと思う。朝起きて意識的に手を動かすということが、今の暮らしには大切なのではないだろうか。 人の手だからできること この先の未来は、自動化やタッチレスのような先端技術と、工芸品や紙の本のような手触りを追い求めたようなものとのハイブリッドな世の中になる。最近では、工芸品を購入するだけでなく、物を作るワークショップや自作キットも人気で、金継ぎや藍染体験は何ヶ月も予約が取れないほどの人気ぶりだ。日常生活で手を使わなくなった分、何かこうした機会に手を動かしたり、物を作り上げたりすることで、無意識的に人は身体のバランスを取っているようにも思う。こうして考えてみれば、手を使うということは人にとって特別なことであって、まだまだ多くの可能性も残されている。世の中がタッチレスに向かっていく時期だからこそ、人の手だからできること、人の手でしか伝えられないものを、今一度考える良い機会なのではないだろうか。 [...]

2022-03-14T09:05:21+09:002022/03/13|

社会問題と工芸

現在、新型コロナウイルスの出現によって、私たちは、大きな変化の真っ只中にいる。こうした変化は、日々の暮らしや社会の在り方について見直す機会ともなり、気候変動や経済格差、少子高齢化など、様々な社会問題に関心を持つ人も増えてきた。多くの国で、物質的には豊かになり、寿命は伸びる一方で、社会全体が幸福になっているかと問われれば、そうだと言い切ることは難しい。世界を見渡せば、行き過ぎたグローバル化や資本主義の在り方にも何らかの修正が必要なことは顕著であり、アフターコロナを見据えながら、個人、企業共に、様々な社会問題に向き合う姿勢が求められている。 地方産業の活性化 私は、2015年頃から日本工芸の価値を国内外に伝えていく活動をしているが、こうした変化の中で、社会問題の解決に繋がる工芸の役割とはどういうものかをより深く考えるようになった。最も明確な役割というのは、地方産業の活性化だろう。工芸品は日本各地で作られているもので、そこに暮らす人々にとっては、大切な働き口の一つとなっている。かつてのように、多くの職人を抱えてものづくりをする時代には戻れないだろうが、その土地ならではの産業が魅力的であり続ければ、都会から地方に移り住む人もいるであろうし、雇用以外の価値も生まれる。 また、現代の工芸品は、観光産業にも大きく貢献している。地方の工芸品は、以前から旅の土産としての人気はあったが、今では、工房や地方の美術館への訪問そのものが旅の目的であることも珍しくない。郷土料理と同じように、工芸が地方を代表する一つの文化として幅広く発信され続ければ、海外への繋がりも生まれ、新たな可能性も広がっていくだろう。 気候変動に向き合う 現在、最も世界で声高に叫ばれている社会問題の一つである気候変動についてはどうだろうか。気候変動の大きな要因は、温室効果ガスの排出であるが、現代の工芸品は大量生産品ではなく、その他の大規模な産業と比べれば、全体的な排出量は少ないと言える。陶磁器やガラスを作る際には、高温での焼成が必要であることには課題はあるが、工芸品の材料の調達距離は短く、人の移動も少ないことから、現代のものづくり産業としては環境への負荷は少ない。何よりも大切な点は、工芸品が長く使われることを前提としたものであり、金継ぎなどのように、修理を繰り返しながら、何世代にも渡り使うことができるというのが、工芸品のサステナブルな魅力だろう。そうして、日々の暮らしの中で使う物に意識を向け、愛着を深めることが、環境問題への取り組みへの第一歩であるのだ。 暮らしの多様性 私自身は、様々な社会問題がある中で、最も工芸が重要だと感じる役割は、工芸品を通じ、文化や暮らしの多様性に気づくことだと思っている。これは、行き過ぎたグローバル化を見直すことでもある。様々な国を訪れてみるとわかるが、今では、どの国の都市でもショッピングモールにいけば、同じようなブランド、食品が並ぶ。どこの国で作られているかは、札を見なければわからないものばかりだ。そうしたものだけに囲まれていると、違いを尊重するような感覚は薄れ、いずれは、何を食べても同じ味、何を着ても同じ素材だと思うような人間になってしまうのではないかと思っている。日本の工芸品は、それぞれの地域の個性を映し出したものであり、かつ、一つずつが少しずつ異なる個性ある道具である。その少しずつの違いに気づくことは、そこに住む人々の個性や生き方を尊重することにも繋がっていく。日本に限らず、世界では、先進国であれ途上国であれ、その土地ならではの工芸品や文化はあり、それらを互いに尊重し、活かし合うことに、グローバル化の未来があるのではないだろうかと思う。 社会問題は、大きな課題であるほど、すぐに身近なものとして受け止めることが難しい。そのため、まずは「知ること」、その次に「感じること」、そして日々の中で「行動すること」を一歩ずつ行っていく必要がある。私も、毎日の暮らしの中で、社会問題を強く意識してきたわけではないが、さまざまな工芸品に向き合っていると、今までとは異なる暮らしの在り方に気づかされることがあり、少しずつ自分自身を変化させてきた。日常は快適で楽なほうへとみなで進むことだけが豊かな未来に繋がるものではなく、時には遠回りしたり、手間暇をかけることも必要であり、工芸には、そんな気づきが隠されているような気がするのだ。 文:柴田裕介

2021-11-27T14:05:14+09:002021/11/27|

工芸の一点物

工芸品には「一点物(いってんもの)」という表現があり、それは、世の中に一点しか存在しないものという意味を持つ。この「一点物」という言葉は、工芸作家の作品に多く用いられる表現で、蒐集家たちは、自らの好みの一点物に出逢うため、様々な作家の展示会に足を運ぶ。 一点物はこれまでも多くの蒐集家を魅了してきたが、実を言えば、工芸の一点物というのは定義がとても難しい。多くの絵画や彫刻のような美術品は、まさに生涯で一点しか作られない一点物だ。一点物であるがゆえに価値が高まり、人気の美術品は、高額な値段で売買される。一方で、工芸品の場合は、基本は日常で使うものであり、ある数量を作る必要がある。国宝である曜変天目茶碗のようなものでも、今となっては一点物であったかは判断ができず、その時代には大量に焼かれていた可能性も残っている。 例えば、信楽焼の作家が同じ土を使って、薪窯を用いて、茶碗を作るとする。ろくろで作るものであれば、形の自由度は高まり、窯変と呼ばれる窯の変化も加わることで、それぞれの茶碗は二つとない一点物の作品として生まれることになる。ただし、何百個、何千個と作るうちに、見る人によっては似たような作品も生まれうる。そうなると、一点物としての境界線はとても曖昧になる。工芸品においては、明確な一点物は、独創的すぎて日常には馴染みづらい。曖昧さを帯びた一点物こそが、日常の中にはよく似合う。 そんな曖昧な一点物の工芸品だが、それは、綺麗な夕焼けのようなものなのかもしれないとも思う。人生では、似たような夕焼けは何度か見るものだが、そのときの気候や風、光など、様々な要因によって、その日そのときの夕焼けが生まれている。似ているようで似ておらず、全ては一瞬の景色でしかない。工芸品の一点物もそんな存在だと思えば、少しは見え方が変わってくるのではないだろうか。そして、その景色は、その時々の眺める人の気持ちにもよって、美しくもなれば、そうでなくなるときもある。特別な色の夕焼けであっても、下を向いていて気づかないときさえある。工芸品も同じで、曖昧な一点物の価値をどのように感じるかは、その人の感性に委ねられているのだ。 工芸に限らず、服の特注を意味するオートクチュールも根強い人気があり、機械で作られた大量生産品ばかりで現代の日常が埋まるかといえば、そうでもないらしい。私たちの中には、周りと同じでありたいと思う自分と、周りと異なる自分でありたいと思う自分が常に同居している。多くのものをシェアで済ませ、物を持たない現代人が増えているとも言われるが、その一方でこうして希少なものを欲する人もいる。それこそが、これからのアートや工芸の役目になるのだとも思う。 一点物を楽しむには、まず、誰がどこでどのように作ったかを知ることから始まり、その上でその一点の作品に向き合うことに尽きる。他と比べることよりも、目の前の一つ一つに、真っ直ぐに向き合うこと。触れ、使い、時には距離を置いて、遠くから眺めてみる。それは人との向き合い方にも似ていて、とても大切なことでありながら、どこか忘れがちなことでもある。そんなことを、曖昧な一点物の工芸品からは学んでいる気がするのだ。 文:柴田裕介

2021-09-17T10:18:55+09:002021/08/11|

手仕事の未来

現代の工芸品は、全ての工程が手で行われているとは限らないが、その多くが手仕事であることには変わりはない。手で作られたものには、独特の温もりと素朴さがあり、その魅力がすぐに失われることはないだろうが、機械生産の高品質な日用品に慣れ親しんでしまっている私たち現代人にとっては、手仕事のものに触れる際には少しばかりの心構えが必要だとも思っている。 この先の未来では、AIや自動化が進み、いずれは食材だけを用意すれば、美味しい「手料理」を作ってくれるロボットが登場し、家で食事を作ることも激減するかもしれない。工芸品も例外ではなく、人の繊細な手業を機械が完璧に再現する日もそう遠くないだろう。それでも、故郷に帰ったときに食べる手料理は、どんな料理とも比べることができないように、人が手で作るものへの愛情は、もうしばらくは変わらないだろうと思う。 未来に、工芸のような手仕事はどうあるべきなのだろうか。もちろん、使う人にとって、手仕事のもののほうが素朴な手触りがして、親しみが湧くということもあるだろうが、それ以上に、作り手側の気持ちとして、物を手で作ることが楽しいということも大事なことではないかと思う。楽器を弾いたり、食事を作るなど、手を使うということは、人にとって大きな価値の一つであり、決して効率的で生産的だからといって、安易に機械に置き換えてよいものでもないだろう。工芸品に触れていると、作品としての美しさを感じる一方で、作り手が楽しみながら作ったかがわかる瞬間というものがある。一例を挙げると、信楽焼作家の澤克典さんの絵付け作品からはそうした手仕事の楽しさが感じられ、明るい気持ちにさせてくれる。 仮に技術を完璧に再現したものがあったとして、そこにそうした感情は生まれるものだろうか。誰かが手で作ったという事実は、とても大事なことであり、まったく同じものであっても、おそらく心への響き方は大きく異なる。人の手というものは不思議なもので、様々なことを作り上げてきた歴史がある。人の手の可能性をもう少しだけ掘り下げてみたい。そんな気持ちすらある。 使い手として手仕事に向き合うには、不揃いを個性だと感じる「目利き」も必要になる。今の時代、不揃いを個性と感じることは、簡単なことではないだろう。特に西洋文化では、家庭で同じ食器を多く揃えるのが一般的で、見た目が綺麗に揃っていることを美とする。一方で、日本の一般家庭では、飯碗やお箸は、それぞれで異なるほうが一般的であるし、家庭の中でもこれはお父さんのお碗、これはお母さんのお箸とそれぞれが愛用するものを使うのである。同じかどうかを見る目よりも、異なるものの個性を見出す美意識を広めたい。それが、こうした日本工芸ギャラリーの役割の一つでもある。 手仕事の工芸品の魅力をより感じたいと思う方は、自分も手を使って何かを始めてみてほしい。簡単な手料理でもいいし、絵でも楽器でも良いだろうと思う。そして、それを誰かのために行ってみると、手仕事の美しさと難しさが身近に感じられるようになる。手仕事に明るい未来があるかと聞かれれば答えは難しいが、手仕事で未来は変えられるかと聞かれれば、自信を持って、変えられると答えたい。日々、作り手と向き合いながら、そう思うのだ。 文:柴田裕介

2021-09-17T10:19:33+09:002021/06/21|

現代工芸のキュレーター

現代において、工芸のキュレーターとはどういった存在であろうか。本来、キュレーターとは、日本では学芸員のことを指し、芸術や歴史などを学業として学び、博物館や美術館で働く専門家のことをいうが、今では、独自の目線で情報収集を行い発信する人のことを、そのように呼ぶこともある。私自身は、学芸員の資格を持っておらず、美術館で働いた経験もないが、ギャラリーでは、私自身の美意識で作品を選び、日々お客様に工芸品の成り立ちについて説明をしており、その点でキュレーターとしての役割を担っているとも言える。 工芸は、絵画や彫刻などの美術同様、歴史の深いもので、その知識には際限がない。私も、ギャラリーを運営する以上、日本工芸の作品や産地に関する正しい知識は必要不可欠であり、専門書による学びとともに、作り手の話しも伺いながら、独自で学びを続けている。日本では、陶磁器や漆器、織物など、様々な工芸の分野に関する専門書が出版されており、私のような日本人はそれらの文献を通じて多様に学ぶことができるが、英語や多言語に翻訳されているものは少なく、その点で、私たちがシンガポールで工芸を伝えていくことの難しさと希少さを感じることも多い。 目利きという役割 現代の工芸のキュレーターの仕事として、最も大切な役割の一つは「目利き」だろう。物や情報が溢れる時代になり、それらの価値を見極め、日々の暮らしにどのように取り入れるかは工芸の分野でも益々重要になってきている。目利きを養うには、まずはできるだけ多くの作品に触れること、その中でも名品と呼ばれるものは、いかにして名品となったかをよく理解することが、まずは大切だと思っている。陶芸であれば、古い時代の六古窯の作品に始まり、多くの作り手に影響を与えてきた魯山人や河井寛次郎の作品などは、写真を通じて見るだけでも、その美しさから感じるものは多い。そうした名品からは時代を超えた美意識を学びつつ、現代の作り手の作品には直に触れ、今の社会に求められている美を提案するのが、真の目利きであろうと思う。 調和した展示 また、キュレーターの核たる仕事の一つとして、「展示・陳列」というものがある。展示と聞くと、美術館や博物館の大きな展示会を想像しがちだが、場の大小を問わず、意味を持って作品を美しく展示するということは、キュレーターにとって大きな醍醐味の一つと言っていい。展示というのは、作品一点のみを見て行うものではなく、その周りの作品や環境との調和によって為されるものだ。感じ考えながら一所懸命に行うもので、簡単にさっとできるものでもない。不思議なものだが、私たちのギャラリーのような空間であっても、時と場所によって作品の佇まいは大きく変わるものであり、その変化を読み、独自の世界観を生み出せるようになると、この仕事がますます楽しくなってくる。 キュレーターという言葉は、現代になって用いられているような印象があるが、千利休を始めとする昔の茶人たちが海外の雑器を用いて侘び寂びを表現したり、民藝活動のように、名のない職人の品を民藝と名づけ、新たな美意識を伝えたことは、一種のキュレーターとしての活動であるとも言える。同じように、現代であっても、海外では、日本の工芸品が広く認知されているとは言えず、そこに新たな意味を設け、道を作るところに、私たちの大きな役目がある。その道は、ほんの数日でできあがるようなものではないだろう。日々のひとつひとつの積み重ねが、やがて新しい道を作ることになるのだ。 文:柴田裕介

2021-03-18T12:24:57+09:002021/02/23|

工芸と陰翳

物事には、「光」と「影」があり、「陽」と「陰」がある。一般的には、明るいもの、煌びやかなものは美しいとされ、暗いもの、簡素なものは侘しいとされる。谷崎潤一郎は「陰翳礼賛」という本の中で、生活の中の暗がりの在処を見つけ、そこに美を見出すことこそが日本ならではの美意識の一つだと書いた。暗がりの中で見る漆器は美しく、滑らかな光沢とは対局にある和紙の肌理には温もりが満ちていると。21世紀になり、すでに20年が過ぎるが、社会は未だに明るさや清潔さを求めるばかりで、暗がりの在処は忘れられていく一方に思う。その違和感こそが、自分自身が工芸の世界に身を寄せようとする理由なのかもしれない。 工業品と工芸品 「陰翳」というのは、ただの暗闇を指すものではなく、光の当たらない薄暗いカゲを指す言葉だ。光があるからこそカゲがあり、その両者が調和するところにこそ美しさがある。現代の工芸品は、その存在自体が、陰翳の中にあるとも言える。工業製品が輝きある光であるとすれば、工芸品の存在は陰であろう。現代では、工業製品があるからこそ、その昔は当たり前だった工芸品の在処が美しく際立つようになったのだ。高層ビルが立ち並ぶことで、古民家の価値が見直されることや、高音質の音楽が普及するにつれ、アナログレコードの人気が再燃していることにも似ている。昔を懐かしむというだけでなく、そのときには当たり前で気づかなかったものが、主流でなくなり陰のような存在になったとき、突如として、その価値が浮かぶようなことがあるのだろう。 暗がりの中の出会い 暗がりの中では、音や香りも大切な要素になってくる。耳を澄まし、湯を沸かす音を聞いたり、虫の音で夜を彩ることもある。工芸品は、触れたときの音にも個性があり、楽しめるものだ。出来の良い急須や茶筒の蓋を閉じるのは、なんとも言えない心地よさがある。香りも同じく、漆の匂いは独特であるし、天然木の工芸品はやはり趣がある。暗がりに身を置くことで、その感覚が研ぎ澄まされるのは言うまでもない。 社会的活動に関心のある方ならば、一度は名前を聞いたことがあるであろう「キャンドルナイト」。これは、その日一日は、照明を消し、キャンドルの灯りで夜を過ごそうというものだ。スローライフの代名詞のように扱われているものだが、日本の工芸の美に気づくために、海外で、そうした一日を作ってみたいとも思っている。暗がりの中で漆器や竹籠を眺めたり、触れてみる。その感覚は、何か大切な記憶を呼び戻してくれるのではないだろうか。 光が当たるものは無意識にその存在に気づくが、陰翳は、意識して目を向けねばその美に気づかないものだ。現代の工芸品も同じで、伝え続けてこそ、その価値に気づいてもらうことができる。工芸ギャラリーとは、そのためにあるのだろうし、説明せずともわかる光にすぐに流されてはいけまいと、日々自分に言い聞かせている。明るいもの、煌びやかなもののみを見るのではなく、薄暗がりの中で、心静かに何かに向き合っていたい。それこそが、今の時代に必要な侘び寂びに他ならない。 文:柴田裕介  

2021-02-08T16:17:13+09:002021/02/08|
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