現代工芸のキュレーター

現代において、工芸のキュレーターとはどういった存在であろうか。本来、キュレーターとは、日本では学芸員のことを指し、芸術や歴史などを学業として学び、博物館や美術館で働く専門家のことをいうが、今では、独自の目線で情報収集を行い発信する人のことを、そのように呼ぶこともある。私自身は、学芸員の資格を持っておらず、美術館で働いた経験もないが、ギャラリーでは、私自身の美意識で作品を選び、日々お客様に工芸品の成り立ちについて説明をしており、その点でキュレーターとしての役割を担っているとも言える。 工芸は、絵画や彫刻などの美術同様、歴史の深いもので、その知識には際限がない。私も、ギャラリーを運営する以上、日本工芸の作品や産地に関する正しい知識は必要不可欠であり、専門書による学びとともに、作り手の話しも伺いながら、独自で学びを続けている。日本では、陶磁器や漆器、織物など、様々な工芸の分野に関する専門書が出版されており、私のような日本人はそれらの文献を通じて多様に学ぶことができるが、英語や多言語に翻訳されているものは少なく、その点で、私たちがシンガポールで工芸を伝えていくことの難しさと希少さを感じることも多い。 目利きという役割 現代の工芸のキュレーターの仕事として、最も大切な役割の一つは「目利き」だろう。物や情報が溢れる時代になり、それらの価値を見極め、日々の暮らしにどのように取り入れるかは工芸の分野でも益々重要になってきている。目利きを養うには、まずはできるだけ多くの作品に触れること、その中でも名品と呼ばれるものは、いかにして名品となったかをよく理解することが、まずは大切だと思っている。陶芸であれば、古い時代の六古窯の作品に始まり、多くの作り手に影響を与えてきた魯山人や河井寛次郎の作品などは、写真を通じて見るだけでも、その美しさから感じるものは多い。そうした名品からは時代を超えた美意識を学びつつ、現代の作り手の作品には直に触れ、今の社会に求められている美を提案するのが、真の目利きであろうと思う。 調和した展示 また、キュレーターの核たる仕事の一つとして、「展示・陳列」というものがある。展示と聞くと、美術館や博物館の大きな展示会を想像しがちだが、場の大小を問わず、意味を持って作品を美しく展示するということは、キュレーターにとって大きな醍醐味の一つと言っていい。展示というのは、作品一点のみを見て行うものではなく、その周りの作品や環境との調和によって為されるものだ。感じ考えながら一所懸命に行うもので、簡単にさっとできるものでもない。不思議なものだが、私たちのギャラリーのような空間であっても、時と場所によって作品の佇まいは大きく変わるものであり、その変化を読み、独自の世界観を生み出せるようになると、この仕事がますます楽しくなってくる。 キュレーターという言葉は、現代になって用いられているような印象があるが、千利休を始めとする昔の茶人たちが海外の雑器を用いて侘び寂びを表現したり、民藝活動のように、名のない職人の品を民藝と名づけ、新たな美意識を伝えたことは、一種のキュレーターとしての活動であるとも言える。同じように、現代であっても、海外では、日本の工芸品が広く認知されているとは言えず、そこに新たな意味を設け、道を作るところに、私たちの大きな役目がある。その道は、ほんの数日でできあがるようなものではないだろう。日々のひとつひとつの積み重ねが、やがて新しい道を作ることになるのだ。 文:柴田裕介

2021-03-18T12:24:57+09:002021/02/23|

工芸と陰翳

物事には、「光」と「影」があり、「陽」と「陰」がある。一般的には、明るいもの、煌びやかなものは美しいとされ、暗いもの、簡素なものは侘しいとされる。谷崎潤一郎は「陰翳礼賛」という本の中で、生活の中の暗がりの在処を見つけ、そこに美を見出すことこそが日本ならではの美意識の一つだと書いた。暗がりの中で見る漆器は美しく、滑らかな光沢とは対局にある和紙の肌理には温もりが満ちていると。21世紀になり、すでに20年が過ぎるが、社会は未だに明るさや清潔さを求めるばかりで、暗がりの在処は忘れられていく一方に思う。その違和感こそが、自分自身が工芸の世界に身を寄せようとする理由なのかもしれない。 工業品と工芸品 「陰翳」というのは、ただの暗闇を指すものではなく、光の当たらない薄暗いカゲを指す言葉だ。光があるからこそカゲがあり、その両者が調和するところにこそ美しさがある。現代の工芸品は、その存在自体が、陰翳の中にあるとも言える。工業製品が輝きある光であるとすれば、工芸品の存在は陰であろう。現代では、工業製品があるからこそ、その昔は当たり前だった工芸品の在処が美しく際立つようになったのだ。高層ビルが立ち並ぶことで、古民家の価値が見直されることや、高音質の音楽が普及するにつれ、アナログレコードの人気が再燃していることにも似ている。昔を懐かしむというだけでなく、そのときには当たり前で気づかなかったものが、主流でなくなり陰のような存在になったとき、突如として、その価値が浮かぶようなことがあるのだろう。 暗がりの中の出会い 暗がりの中では、音や香りも大切な要素になってくる。耳を澄まし、湯を沸かす音を聞いたり、虫の音で夜を彩ることもある。工芸品は、触れたときの音にも個性があり、楽しめるものだ。出来の良い急須や茶筒の蓋を閉じるのは、なんとも言えない心地よさがある。香りも同じく、漆の匂いは独特であるし、天然木の工芸品はやはり趣がある。暗がりに身を置くことで、その感覚が研ぎ澄まされるのは言うまでもない。 社会的活動に関心のある方ならば、一度は名前を聞いたことがあるであろう「キャンドルナイト」。これは、その日一日は、照明を消し、キャンドルの灯りで夜を過ごそうというものだ。スローライフの代名詞のように扱われているものだが、日本の工芸の美に気づくために、海外で、そうした一日を作ってみたいとも思っている。暗がりの中で漆器や竹籠を眺めたり、触れてみる。その感覚は、何か大切な記憶を呼び戻してくれるのではないだろうか。 光が当たるものは無意識にその存在に気づくが、陰翳は、意識して目を向けねばその美に気づかないものだ。現代の工芸品も同じで、伝え続けてこそ、その価値に気づいてもらうことができる。工芸ギャラリーとは、そのためにあるのだろうし、説明せずともわかる光にすぐに流されてはいけまいと、日々自分に言い聞かせている。明るいもの、煌びやかなもののみを見るのではなく、薄暗がりの中で、心静かに何かに向き合っていたい。それこそが、今の時代に必要な侘び寂びに他ならない。 文:柴田裕介  

2021-02-08T16:17:13+09:002021/02/08|

抹茶碗の価値

抹茶碗はなぜこれほど高価なものなのか。特に海外では、同じような形状の飯碗との値段差について、質問を受けることがとても多い。日本でも、「茶碗」というと一般的には飯碗を指すことが多いが、工芸や茶の世界では、その名の通り抹茶を飲むための碗のことを言い、特別な価値を持つものとして認識されている。 抹茶碗と飯碗との違い まず始めにお伝えしておくと、抹茶碗の全てが高価なものということでは決してない。安価な抹茶碗も多数存在する。そんな中で、高価な抹茶碗とは何かとなれば、それは「鑑賞」に値する美的価値が備わっているかどうかということに尽きるだろう。高価な抹茶碗を手に取って、360度じっくりと眺めてみてほしい。見た目の美しさはもちろんのこと、手触りや重さなど、一般的な飯碗との多くの違いを感じるはずだ。そうした、人の美意識に働きかけるような茶碗は、芸術的な価値が備わっていると言える。よって、日常使いの飯碗よりも高価なのだというのが、基本的な説明になろうかと思う。 ただし、この美意識は、時代や文化、環境によっても大きく左右される。昔は、朝鮮半島で焼かれた雑器を日本に持ち帰り、茶の湯の茶碗として愛用することすらあった。この一説を考えれば、その美は、作品そのものに宿っているというよりは、使い手によって見出されるものなのだと言ってもよいのかもしれない。ここに、茶碗の面白さがある。 芸術の価値 本来、茶碗に限らず、芸術の価値というものは作者が決めるのではなく、受け手が決めるものであろう。音楽や小説は名作だからと言って高額になるわけではないし、歴史的な絵画も心に響かない人にとってはただの一枚の絵でしかない。ただし、絵画や彫刻の多くは、一点物であるが故に、その希少性から価格が高騰するものがある。それらは競売にかけられることも珍しくなく、作者の決めた価格で世に出回るというものでもない。茶碗も同じで、量産できるものは高額にはなり難いが、窯変などの不確実な変化によって、世に二つとないものを生み出す人気作家の茶碗は、高額になる傾向にある。例えば、日本の国宝となっている「曜変天目」の再現に挑む作家の作品は、その表現の難しさや希少性から、出来の良いものは高い価値を持つとされる。 自分半分、自然半分 茶碗の美には様々な捉え方があるが、私自身は、天然の材料に人の手仕事が加わり、そこにまた窯変などの偶然性が重なり生まれる美にこそ魅力があるのではないかと思っている。茶碗の作り手とお話しをすると、多くの作家が自然への愛着を持ち、自分自身の表現だけではなく、自然と調和したものづくりを心がけている方が多いことに気づく。目の前に生まれた茶碗は、「自分半分、自然半分によってできている」と考える方がとても多いのだ。そうした作家の視点にも学ぶべきことが多くある。 私は、茶碗は立体的な絵画のようなものだとも感じている。美しい絵画の前では、何時間も眺めていたい気持ちになることがあるが、良い茶碗も長く触れていたい気持ちになる。もちろん、茶碗は茶のために使う道具なのだが、その佇まいはどこか繊細で、それだけでは完結していないような印象を受ける。眺め、触れて、使いながら育つ美とでも言えば良いのだろうか。こうした芸術品は、眺めたり触れたりする際、その隙間に自分の心が映し出されたり、見透かされてるような気持ちになるものだ。今日見る茶碗と明日見る茶碗はきっと違う。そうした鏡のような面が茶碗にはある。 千利休が茶の湯を大成させたときから、400年以上が経とうとしているが、茶碗は日本の美意識を深く映し出した工芸品として、現在でも国内外で独特の存在感を放っている。工芸の世界に足を踏み入れた方には、自らの心を映し出してくれる素敵な茶碗に出逢ってほしい。それは、工芸ギャラリーを運営する人間としての一つのささやかな願いでもあるのだ。 [...]

2020-10-27T21:05:07+09:002020/10/27|

日本の色世界

「色」は、文化の一つであり、美的な表現の一つでもある。もしも、それぞれの文化が固有の色彩を持たなければ、文化の境界線は曖昧になり、ここまで美術や工芸は各国独自の発展を見せなかったであろう。欧州のように地続きの国々でさえ、それぞれには独自の色の文化がある。自然環境はもちろん、宗教や思想、ファッションなどからも影響を受け、色は様々な発展を遂げてきた。日本も、豊富な自然と四季の存在により、他にはない色の文化を作り上げてきた。燻んだ色にも意味を与えながら、桜のように美しい花が色の名になることもある。金銀は、金閣寺・銀閣寺はもちろんのこと、美術史においては琳派の世界を思わせ、日本の美意識が大きく映し出されている。色を知ることは、その土地の美意識を知ることであり、工芸においても、大切な要素の一つなのだ。 私自身は、以前から色の世界が好きで、いつか色についてきちんと学んでみたいと思い続けてきたが、工芸の世界に足を踏み入れ、織物の草木染めの世界に触れたことで、これまで以上に、日本の色の美しさに深い興味を抱くようになった。工芸の色と言えば、陶磁器の染付や赤絵、漆器の朱や黒、木版摺りの色彩などが思い浮かぶが、日本の草木そのものの色を映し出すという点で、草木染めは色表現の代表的な存在と言っていいだろう。 私が初めて草木染めに触れたのは、小倉織の染織家である築城則子さんの工房に伺ったときのことだ。築城さんは大学在学中に、能装束の魅力に出会い、そこから染織家としての道を歩み始めた。その後、自身の故郷で一度は途絶えてしまっていた小倉織を復元することに成功。そこからは小倉を拠点として、精力的な活動を続けている。文学を愛する築城さんの色世界は、深くそしてどこまでも広い。築城さんの作品は、縦縞のグラデーションを特徴とするものだが、グラデーションを表現するには、一つの色に対し多数の濃淡が必要で、染める作業だけでも多くの時間を要する。築城さんの工房には多数の色糸が保管されているが、それを染めた歳月を思うと、自然の広がりを感じざるをえない。「青」と一言で言っても、「群青」「瑠璃」「紺碧」など、無数の青があり、ひとつひとつに意味がある。名づけた人の感性も素晴らしいが、それを伝え繋げてきた言葉のリレーも美しい。 私は、別の国に訪れると、まずは匂いと色が日本とは異なることに意識が向かう。色が異なるのは、物に備わる色だけでなく、光や湿度による影響も大きいのだとは思うが、そうした環境の違いの中で、どんなものがその国で最も美しいとされているかを想像することが楽しい。異文化の壁を超え、日本の工芸品を伝えていくことは、日本の色が海を渡ることでもあり、色の説明も続けていくべきなのだろうと思う。いつしか、日本の色をテーマにした工芸の展示を行いたいと思っているが、それはきっとそう遠い未来の話ではない。 文:柴田裕介 写真:須田卓馬

2020-10-23T09:01:30+09:002020/10/23|

待つことの美学

学生時代、社会学を学んでいた私は、鷲田清一という日本の臨床哲学者の本を読み漁った。その中に、『「待つ」ということ』という題の本があり、今でも記憶に残っている。 現代人は、待つことに不慣れになってきている。欲しいものはインターネットですぐに手に入るし、携帯電話は待ち合わせの時間を無くしてしまった。暇なときは、スマートフォンで時間をつぶし、周りを見渡すことなく、常に何かに繋がっていないと落ち着かない。そんな時代になってしまった。便利になったと言えば聞こえはいいが、待つことはそれほど無意味なものだろうかと、ふと疑問に思ってしまう。 ギャラリーでお客様に工芸品について説明をする際、工芸品にはたくさんの魅力があるが、時間がかかる点だけは理解してほしいとあらかじめ伝えるようにしている。効率化が求められる世の中には逆行することだが、工芸にとっては本質とも言えるくらい大切なことであるようにも思う。例えば陶磁器の場合、登窯や穴窯を用いる作家は、年に数度しか窯を焚かないことも多く、その時期を逃せば、次に作品に出会えるのは一年後ということもある。また、漆器も、工程の多い輪島塗などは、発注から納品まで半年かかることも珍しくない。移り変わりが激しい世の中では、多くの人が疑問を感じることであろうが、むしろ待つことを前向きに感じてもらうことが、工芸に向き合う心構えなのではないかと思っている。 待つ時間と言えば、お茶や珈琲を淹れる時間も思い浮かぶ。茶葉や珈琲豆を蒸らす時間はほんのわずかだか、ゆっくりと待つ時間は心地がいい。工芸において、用の美は大切だが、使うことと同じく、工芸品が作り出す時間や空間にも、人生の豊かさはあるものなのだ。 思えば、ミケランジェロの代表作である『最後の審判』は5年の歳月をかけて制作されたと言われている。昔の芸術作品には、それ以上に時間を費やしたものも少なくない。そうしたものが今の時代にまで語り継がれている。工芸品も日常的に使っていただくには、効率的に作り、適度な価格で販売する努力は必要だが、時間をかけてこそ美しいものも、少しばかりはあってもいいとは思う。そのどちらもが工芸にとって必要な要素なのだろう。 待つということは、決して時間を失うことではなく、未来を思い浮かべる贅沢な時間なのかもしれない。工芸品を通じて、そんな時間をお届けできたらと思っている。 文:柴田裕介

2020-08-12T09:11:12+09:002020/08/12|

うつわの縁、人の縁

日本では、食器や花器を意味する「器」を、平仮名で「うつわ」と書くことがある。特にこの書き方に定義があるわけではないと思うが、平仮名で書くと文字が柔らかい印象になることもあり、陶器や焼き締めの和食器が好きな方はそのように表現することが多い。うつわというのは不思議なもので、縁を感じながら出会うものでもある。旅先で出会うものもあれば、展示や陶器市の際に幾多の作品の中から選び抜いたものもあるだろうが、そのどれもが不思議と縁を感じさせてくれる。そうした愛くるしい魅力が「うつわ」にはある。 HULS GALLERYは、うつわに限らず、織物や木工品など、様々な工芸品を扱うギャラリーだが、そうした縁の連続によって成り立っている点は、昔ながらのうつわ屋と同じだ。ギャラリーを訪れる方々からは、どのような基準で作品を選んでいるのかとよく聞かれるのだが、私たちの場合、一つ一つの作品を選んでいるというよりは、産地の作り手との出会いの連続によって、自然とこのような品揃えになってきたとお伝えすることが多い。また、取り扱いの経験が増えていくと、作品を見るだけで作り手の性格や個性がうっすらと感じられるようにもなり、それこそが、私たちの経験則なのかもしれないと思う。 結局は、私たちにとってのうつわの縁というのは、人の縁であるとも言える。工芸品の取り扱いには、作り手との対話は不可欠であるし、共に食事をしたり、同じ景色を眺めながら、その人の持つ人生観や美意識を知ることが、私たちにとっては大事な時間の一つでもある。私たち自身が産地に行くこともあれば、作り手の方々に東京やシンガポールまで来ていただくこともあり、共に語り合うたびに、縁を実感し、作品への愛着も深まっていく。私たちは、作品のみに向き合っているのではなく、こうして作り手にも向き合い続けているのだ。 私たちは工芸ギャラリーを運営しており、売り手であると同時に、日本工芸の歴史とその魅力を海外へと伝えていくという大きな使命を持っている。その魅力を伝えることなくただ展示して販売するだけなら、私たちの存在は無に近い。工芸品を売ることは、ただ右から左に物が移動することではなく、人から人へと、思いを伝えていくものでもある。作り手が「少しでも良いものを作りたい」と思う気持ち。その気持ちは、時に温かく時に重たく感じるものだが、私は、そうした形のないものの価値を心から信じている。一つの縁は、暮らしを変え、人生をも変える力がある。たった一つのうつわを売るときにも、そうした気持ちを忘れずにいたいと思う。 文:柴田裕介 作品:「玄釉片口酒器 玄釉盃」/山本英樹 [...]

2020-10-07T09:40:01+09:002020/06/10|

古いが新しい

私は、工芸の産地を歩きながら、様々なことを学んでいる気がする。それは、地方の暮らしに憧れを持つということではない。都会で暮らしているからこそ、都会から離れて、産地までたどり着く道の途中で様々なことを感じ、そしてまた、たどり着いたその場所で、一つの美意識が育まれてきたというその事実に、多くのことを気づかせてもらう。誰か一人、何か一つからではなく、一人一人、一つ一つを繋ぎ合わせながら、何かを少しずつ学んでいるのだ。 中でも印象に残っているのは、滋賀にある黒田工房に訪問したときのことだ。それまでは、いくつかの工房を回る中で、「伝統」という言葉よりも、新たな作風に試みをしている作り手に共感することが多かった。黒田工房の代表である臼井さんも、イタリアのミラノデザインウイークで革新的な作品を発表するなど、新たな取り組みに前向きな印象を受けており、当然のことながら、その革新さについてのお話を聞かせてもらえたらと思った。だが、臼井さんは、一方で文化財の襖・屏風などを修復する伝統工芸に携わる生粋の職人でもある。言葉を慎重に選びながら、「伝統」というものを引き継ぐことの重さや難しさを語ってくれ、伝統工芸に関する私のそれまでの考えの浅はかさに気づかされた。 文化的な建造物の修復というのは、ただ壊れたところを直すだけの単純な作業ではない。時代によって、気候や環境は変化しており、その中で、最適な修繕方法を考えていく必要がある。中には、当時と同じ材料が手に入らないこともあるであろうし、技法的に同じような復元が困難なものもあるであろう。一つの選択の過ちによって、文化財全てが倒壊する可能性もあり、その肩に乗る重圧は計り知れない。それからは、伝統を受け継ぐということは、点と点を繋げることではなく、線を繋げていくことなのだと思うようになった。 先を行くものだけが「新しい」とは限らない。今の世の中では、インターネットを通じて、世界中の人々と会話ができることは当たり前だが、釘を用いずに組まれていく伝統的な組子の技術には多くの人が驚きを覚えるだろう。私たちは、日々新しいものを追いかけ、暮らしが少しでも便利で快適になるように、様々な商品やサービスを生み出し続けている。そうしたものを追い求める一方で、いつからか古いもの・伝統あるものが新鮮に映るようになってきたのではないか。器の世界では今でも古伊万里や古九谷の美を追求している作家は多くいる。小倉織を復元した築城則子さんは、能や歌舞伎の衣装に魅せられ、織物の世界に入ったのち、自身の故郷にあった小倉織の切れ端に出会い、一度は途絶えてしまった織物を復元することに成功した。今の時代に、そうした感性から物事を復元できる人はとても貴重だと思う。「古いが新しい」。そんな感性はきっとあり、今の時代の「新しさ」なのではないかと思っている。 文:柴田裕介 作品:「Ren/漣」KORAI(作り手:黒田工房) [...]

2020-10-07T09:40:08+09:002020/06/02|

茶器のすすめ

工芸品を語る上で欠かせないものといえば、酒器と並ぶものに茶器がある。陶磁器の急須・茶碗に始まり、銅製の茶筒、竹製の菓子皿に漆の棗など、様々な素材の工芸品がお茶に関わる道具として、私たちの日常の中で用いられている。私自身も一つ一つの工芸品を学ぶにつれ、お茶への興味が自然と深まってきた。 お茶は中国で生まれたものであるが、日本茶の歴史も長い。800年代には、遣唐師が中国よりお茶の種を日本に持ち帰ったとされ、その後、千利休が「茶道」を完成させ、庶民の間でもお茶が普及し始めたと言われているが、そこから現代までも400年以上の歴史がある。日本の美意識の一つとして語られることの多い茶道だが、様々な工芸品がその道を共に歩むことで、互いに影響し合い発展してきたと言っても良い。 私自身が茶器に興味を持つことになったきっかけは、佐賀県有田の李荘窯による宝瓶との出会いにある。宝瓶とは、取手がない茶器のことであるが、一般的には見慣れないこの茶器の美しさに引き込まれてしまった。宝瓶は、片手で持つものであり、玉露や煎茶など、低温でお茶を淹れるのに最適なものだ。傾けやすく、お茶の旨味が凝縮されている最後の一滴まで注ぐことのできるところにも特徴がある。宝瓶は、自らで使ってみるとわかるが、淹れるときの所作や動作を綺麗にしたい気持ちにさせる。最後の一滴を淹れるまでの間、背筋が伸び、呼吸を落ち着かせてくれ、心までもゆったりとした気持ちになる。 ギャラリーでは、急須の一大産地である常滑焼の茶器も取り扱っている。急須には、取手の位置が異なる「横手」「上手」「後手」という三つの種類があるが、横手型の急須というのは日本特有の茶器であることはあまり知られていない。中国茶は後手型が一般的とされる。常滑の茶器としては、急須を専門とした作り手である伊藤成二さんの作品を扱っているが、伊藤さんの朱泥の作品は色、形が共に美しく、見ているだけで惚れ惚れしてしまう。常滑で淹れていただいた伊藤さんのお茶は、伊藤さんの性格を映し出しているようで、柔らかく優しい味がした。こんなところも、お茶の魅力なのではないかと思う。 工芸の世界と同じく、お茶の世界もまた深い。緑茶の王様と呼ばれる玉露に始まり、抹茶、煎茶、焙じ茶など、丁寧に淹れて飲むと、それぞれが別の飲み物と言ってよいほどに個性を味わえる。また、お茶は、朝・昼・夜によっても、季節によっても、味わい方は異なり、茶器を含めたその組み合わせは、際限がない。私自身、お茶の世界にまだ足を踏み入れたばかりだが、長い時間をかけて、ゆっくりと学んでいきたいと思っている。 文:柴田裕介 作品:「S宝瓶 錆千段」/李荘窯 [...]

2020-10-07T09:40:46+09:002020/04/27|

工芸とサステナブル

ここ数年、頻繁に世の中で使われるようになった言葉の一つに「サステナブル」がある。「持続可能な」という意味を持つこの言葉は、地球環境や社会問題に向き合うことの大切さを教えてくれ、日々の暮らしの中でも、耳にすることが増えてきた。しかし、あまりに多用されてしまっているがために、「サステナブル=環境に良いこと」という意味で安易に人々に伝わってしまっているような気配があり、自分なりに「工芸におけるサステナブルとは何か」を考えるようになった。 私にとってサステナブルとは、時の移ろいについて想いを巡らせることから始まる。今すぐに、地球環境や社会問題に対して深く考え何かを実践することは難しいが、まずは、昔の暮らしはどうだったか、そこから今ではどのように変化したか、これから先はどうなるのかと、時の移ろいに想像力を働かせることを大切にしたい。子供の将来を思えば、自分の怠惰な暮らしは是正したいと思うだろうし、親の時代を思えば、今の時代がどんなに恵まれているかを知ることができる。時代の変化の中で、生きるために本当に必要なものはごくわずかであるが、人として生きている限り暮らしの進歩を追い求めたくなる欲もある。そんな相反するものを上手に調和させながら、社会全体のことを考え行動することが、サステナブルの第一歩であろう。 工芸品は、時間をかけて作り上げ、時間をかけて使い込んでいくものだ。私自身は、唐津のぐい呑や、開化堂の茶筒、上質な柿渋染の革財布などは、静かに経年変化を楽しんでいる。使い込むうちに、愛着は増し、やがては自分と一心同体のものにすらなる。そんなところにこそ、工芸の世界のサステナブルが見え隠れする。工芸品の経年変化を通じて、時の変化を意識し、そこに一つの美意識を生み出す。長く文化が繋がれてきた島国の日本ならではの考え方でもある。今の時代が良いものであれ悪いものであれ、変化していくことを意識することができれば、その道は明るい。まずは、今このときだけのことを考えるのをやめ、昔や未来の暮らしを想像してみる。それは、工芸を通じて広がる世界の一つであろう。 天然素材を主とする工芸品であるが、そうであるからサステナブルだというのは、一つの側面でしかない。工芸品は、素材としては天然のものであっても、簡単にリサイクルをしたり、すぐに土に返るものでもない。物を作ることは、人の生きる証でもあり、簡単に手放すことのできるものではないが、だからこそ、その一つ一つを手に取り、愛着を持つことがまずは大切な一歩になる。また、時代の波に流されることのない息の長い魅力が詰まっていることも、工芸の価値の一つであろう。石器時代の暮らしに戻ることはできないが、祖母が大切に使っていた帯を次の時代に繋げることならできる。そういうことが、私にとってのサステナブルなのだ。 文:柴田裕介 作品:「柿渋染 長財布」/ブルックリンミュージアム [...]

2020-10-07T09:40:52+09:002020/03/27|

不揃いの中の美

現代の工芸品の魅力の一つは「不揃いであること」と言って過言ではない。陶磁器であればろくろや窯変、木工品であれば木目、色糸であれば草木染めなどによって、世に二つとないものが生み出される。世の中は、大きく進歩し、画一的なものに囲まれた暮らしが当たり前になった。そんな中で、一点一点異なる工芸品というのは、特別な意味を持つようになってきた。 不揃いではあるが、不出来ではない。それが工芸のあるべき姿であろう。工芸の世界では、右が左に比べて優れているか劣っているかという価値基準があるわけではなく、あくまで個々一つ一つが美しいかどうかが求められる。もちろん、ガラスのコップであれば、気泡が多くあれば不具合品とみなすこともあるが、それ以上に触れ心地や飲み心地が良いかどうかが作品としての価値を大きく左右する。 私はデザインの経験があり、白紙の上の線が縦に真っ直ぐであるかどうかや、文字が真ん中にあるかどうかをすぐに気づくことができる。頭の中に「違和感のスイッチ」があるといっても良いかもしれない。ただ、工芸品を見て、二つの違いが気になるかというとそういうことはない。おそらく、一般の人々のほうが、そうした違和感に敏感だろうと思う。人も同じだが、隣と比べて良いか悪いか、どれほど揃っているかどうかという議論はさほど心地の良いものではない。不揃いであっても、そこに個別の美しさがあるかを見極められるかどうかが審美眼ではないかと思う。 ただ、工芸の世界において、手仕事だから、この程度で良いだろうという妥協も好ましくはない。大量生産品が主流を占める時代に、不揃いなものに価値を見出してもらうには、大量生産品には、負けない魅力を込める必要がある。不揃いであっても、個々の美を自信を持って語れるかどうか。そこに工芸としてのこだわりが必要なのだ。 現代の暮らしにおいて、無垢材の家具は贅沢なものになり、オートクチュールのドレスは希少になった。工芸品も同じく、その差異は小さくとも、世に二つとない個性を潜めている。それはつまり、作品一つ一つに向き合うことであり、その一つが壊れたら悲しいと思うことであろう。そんな気持ちが、物を大切に使うことの第一歩なのだ。 文:柴田裕介 作品:「信楽 茶椀 」/澤克典 [...]

2020-10-07T09:41:00+09:002020/03/16|
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