茶葉を眺めながら、宝瓶の蓋を静かに持ちあげ、そしてまた閉じる。閉じられた宝瓶を、利き手で包み込むように持ち、ゆっくりとお茶を注ぐ。

私は、この一連の所作が好きなのだ。所作への関心は、宝瓶というものに出逢い、気づいたことの一つでもある。東京ギャラリーのオープニングイベントの際、お越しになった方々に、櫻井焙茶研究所の店主である櫻井さんご自身に宝瓶でお茶を淹れていただき、その美しい所作に目が釘付けになった。私自身は、決して日常の姿勢や所作は美しいとは言えないほうなのだが、お茶を淹れるときだけは、櫻井さんの所作を思い出しながら、背筋を伸ばしていたい気持ちになる。

工芸品は美しい日常の道具であり、その「美しさ」には、使う際の所作も含まれている。蓋の開け閉め、お椀の持ち方、織物の畳み方、その一つ一つに、固有の美しさがある。どんなに美しい工芸品であっても、乱暴に扱ってしまっては、その美しさは台無しになってしまう。物の形はもちろんだが、陶磁器、漆器、ガラスなど、素材によっても触れ方は微妙に異なり、その違いがまた、工芸品の面白さでもある。酒器は、形や素材さまざまだが、片手で握り込むように持つのが似合うぐい呑もあれば、両手で丁寧に持ちたい盃もある。物や場面に適した持ち方があり、そうしたことに意識がいくようになると、日常に奥ゆきが生まれてくる。

所作を美しくするには、呼吸についても意識を向ける必要がある。私は「深呼吸」という言葉が好きで、頭の片隅に常に置いてある言葉の一つでもある。仕事に行き詰まったとき、考えがまとまらないとき、そして心が落ち着かないとき、椅子から離れ、一度外に出て、深呼吸をする。大きく空気を吸い込むことで、身体の隅々に酸素が行き渡る気がする。お茶を淹れるときには、茶葉が開くまでの数分間だけは、何もせず、呼吸を落ち着かせ、茶葉が開くのを眺めるようにしている。そうすることで、気持ちが少しずつ静まっていく。美しい所作の始まりには、心の静まりが不可欠でもある。

現代の暮らしの中には、デジタルの製品が溢れ、ボタンひとつで何もかもを動かすことができるようになってしまった。今では、何にも触れることなく、自動で扉は開き、電気すらついてしまう。そうした暮らしでは、人の細かな動作は少なくなり、所作を感じる機会も少なくなってしまった。日本の昔ながらの旅館では、仲居さんが、綺麗に襖を開け閉めし、挨拶をしてくれる光景があった。襖への指先のかかり方一つにも気持ちが込められ、そうした所作にこそ、日本らしい美というものがあったのだろう。人の所作というのは、物や道具との関係の中で育まれてきたものであったはずで、生活が変われば、必要な動きも変わっていく。それは仕方のないことだが、人が暮らしと共に長く積み上げてきたものは、工芸品そのものだけではない。工芸品を用いることで生まれた、人の所作でもあったのだということを、私たちはしっかりと伝えていきたいと思う。

文:柴田裕介