人にとって、手を使うというのは、どういうことだろう。手で触れることで伝わるものは確かにあるし、手を使うことでさまざまなものを作り出すこともできる。文字を書くこと、服を縫うこと、楽器を弾くこと、料理をすること、そして陶磁器や漆器を作ること、それらはすべて手を使うことから始まっている。

タッチレスに向かう現代

ここ最近、日常で手を使うことの大切さを考えるようになった。きっかけは、新型コロナウイルスの出現により、ソーシャルディスタンスが推奨され、あらゆることが自動化やタッチレスに向かっていることだった。タッチレスでの決済や音声での入力はとても便利で、後戻りできるものでは決してないが、ふと気づくと、一日で手を細かく動かしているのは、パソコンとスマートフォンを使っているときのみという生活になってきている。このままいけば、手をほとんど使うことなく、一日を終える日も来るかもしれないとすら思う。

電子書籍と紙の本

人は手で道具を用いたことで脳が発達し、言語を獲得した。手を用いることは、それだけ人間という動物にとって、とても重要なことであったはずだが、私たちの現代の暮らしは急速に変化をしてきている。世の中は、さまざま技術で快適さや便利さを実現していく一方で、本来人に備わっていた手の感覚や能力がどこか置き去りにされているのではないだろうかと思う。例えば、電子書籍と紙の本。電子書籍は大量の本を持ち運べ、翻訳機能などもついた優れものだが、脳科学の世界では、紙の本のほうが記憶に残りやすいことがわかってきている。紙に触れながら読むことで、五感全体で記憶しているのだろう。学校の授業も、パソコンを用いた授業に変わってきているだけでなく、オンライン化も急速に進んだが、教育現場ではこうした変化による子供の学力の低下を心配する声もあるという。オンライン授業の利点は多いにあると思うが、一方で、身体や五感を用いた学習の大切さも、同時に浮き彫りになってきている。

うつわの手触り

食事の際の食器にも同じようなことが言える。自動で作られたプラスチックのお皿よりも、人の手で作られた天然素材の陶磁器や木のうつわで食事をしたほうが、印象に残りやすい。もちろん私自身がうつわが好きで、そこに意識が向かうこともあるだろうが、食事というのは、ただ味を楽しむだけのものではなく、手で触れることで、より一層その時間を味わい深くすることができる。お皿に独特の手触りや重さがあると、手が刺激され、それが記憶や感情に繋がっていくのだろう。特に日本の食文化は、お椀や鉢を手に持ちながら食べるため、食器の素材や形の良し悪しがとても大切になってくる。子供に天然素材のうつわやお箸を持たせるのは、食事に温もりを与えるだけでなく、手の感覚を養うことにも繋がっている。

私は、今年に入ってから、紙のノートに文字で日記を書くようになった。仕事では、パソコンやスマートフォンを活用してしまうが、私生活では手を使うことを意識し始めている。また、長く続いている毎日の日課の一つは、朝にドリップ珈琲を淹れることなのだが、手作業なので、同じ豆でも毎日少しずつ味が変わる。朝に淹れたてのドリップ珈琲を飲むととても気分が落ち着くが、手を使って淹れることで、ほんの少しの手や頭の運動になっているような気もする。他にも、抹茶を点てたり、絵を描いたり、楽器を弾いたりというのも良いと思う。朝起きて意識的に手を動かすということが、今の暮らしには大切なのではないだろうか。

人の手だからできること

この先の未来は、自動化やタッチレスのような先端技術と、工芸品や紙の本のような手触りを追い求めたようなものとのハイブリッドな世の中になる。最近では、工芸品を購入するだけでなく、物を作るワークショップや自作キットも人気で、金継ぎや藍染体験は何ヶ月も予約が取れないほどの人気ぶりだ。日常生活で手を使わなくなった分、何かこうした機会に手を動かしたり、物を作り上げたりすることで、無意識的に人は身体のバランスを取っているようにも思う。こうして考えてみれば、手を使うということは人にとって特別なことであって、まだまだ多くの可能性も残されている。世の中がタッチレスに向かっていく時期だからこそ、人の手だからできること、人の手でしか伝えられないものを、今一度考える良い機会なのではないだろうか。

文:柴田裕介