形のない美しいもの
人生には、ふとした瞬間に生きている実感を感じることがある。日々の暮らしというのは単調になりがちだが、繰り返しのように見える一日一日も、着実に石は積み上がっていて、あるときその石の形がぼんやりと浮かび上がってくるものなのだ。 2025年3月、シンガポールにて、輪島キリモトの代表を務める桐本泰一さんによる実演販売会が行われた。輪島キリモトは、石川県輪島の漆器ブランドであるが、2024年1月1日に発生した能登半島地震によって大きな被害を受けた。私は震災後に輪島を訪問しており、美しい能登の景色が一変してしまった現状を目の当たりにしている。今回の展示は、そうした輪島の復興に向けての新たな一歩となるべく、特別な想いの込もったイベントとなった。 二日間の実演では、輪島キリモトの得意とする豆鉋(まめかんな)によるスプーン作りが行われた。週末ということもあり、客足は途絶えることなく、多くのお客様にお越しいただいた。輪島キリモトのスプーンは、形の美しさだけではなく、舌触りがとても優れている。私自身も普段から愛用しているが、アイスクリームやヨーグルトを食べる際には欠かせない。今回の実演でも、鉋で削られたあとのスプーンに手で触れたお客様は、その心地良い手触りに大きな驚きを感じてくれていた。 今回の実演から学ぶこと シンガポールは、自然災害の少ない土地だ。台風や地震がなく、津波や洪水の恐れも少ない。インフラも整っており、暮らしはとても穏やかではあるが、人々はそうした平穏な生活が当たり前のように続き、自然の変化というものがどこか遠い存在のように感じている面がある。また、あらゆる食物が輸入されており、食物は気候によっては不作になるという感覚も乏しい。「A city in a garden」という表現で緑化宣言をしている国だからこそ、自然の豊かさだけでなく、脅威にも目を向けてほしいと思う。 日本では、地震や台風以外にも、自然の変化によってさまざまな困難が発生する。どんなに豊かな暮らしをしていても、思う通りにはいかないことも多い。だからこそ、日々を謙虚に慎ましく過ごし、互いに支え合いながら暮らす文化が育まれてきた。ものづくりも同じであり、多くの工芸品は分業制に基づいて作られており、それぞれの職人の信頼関係によって成り立っている。輪島も例外ではない。被災した輪島では、現在、分業のさまざまな工程で作り手不足が深刻となっており、これまで以上に、地域の中での支え合いが必要となっている。 [...]