何事も基本が大切。これは美術や工芸の世界だけでなく、どんな職業であれ、その道を極めた人が口にすることの一つである。基本を理解しないままに応用を行おうとすると、必ずやどこかに無理が生じる。別の言い方をすれば、何事にも基本というものがあり、それを理解し習得することが、一流になるための第一歩でもある。

基礎と基本の違い

基本とよく似たもので「基礎」という言葉がある。基礎とは物事の土台となるものであり、その上に積み上がるものがある場合に用いられる。例えば建築の世界では、基礎をきちんと作らなければ、建物全体は縦に高く積み上げることができない。一方で、基本という言葉は、土台にある基礎とは異なり、物事の中心にあるものを意味する。「基本ができていれば応用がきく」という表現があるように、応用は基本を中心として、360度さまざまな方向に広がっていくことができる。一流の人は、基本がしっかりとしていれば、多くのことに柔軟に対応ができることを理解しており、そのため「何事も基本が大切」ということをよく口にするわけだ。

日本文化における基本

日本は長い歴史の中で、じっくりと物事に取り組むことを得意としてきた。日本の社会では、短期間に個々人で成果を上げることよりも、長期的な視点を持ちながら集団全体で目的を達成していくことが重んじられてきた。そうした社会では、まずは集団において基本とされることをしっかりと身につけることが重要であり、例えば掃除や挨拶は、学校や企業どちらであっても基本的な行いの一つとされている。サッカーのワールドカップやオリンピックなどで、日本人選手がロッカールームや競技場を自主的に掃除することを海外メディアが驚きを持って報じることがあるが、日本では、プロスポーツ選手であっても、掃除や道具の手入れは基本の一つと考え、自分自身で行うことで競技や関係者への敬意を示すことも多い。

また、能や歌舞伎のような伝統芸能の世界では「型」というものがあり、これもまた日本社会における基本に対する精神性を色濃く映し出している。伝統芸能の世界では、型を持った人間が新たなことに取り組むことは「型破り」と言うが、基本を習得していない人間は「型無し」と言われ、一人前でないとされる。型は、基本的な動作を反復することで体に染み込ませていくものであり、無意識で行うようになって初めて身体的な動作の美しさが生まれる。こうした反復による動作の習得は茶道や武道にも共通する日本の美学でもある。

工芸の世界では「民藝」という表現があるが、これもまた反復する作業の中に美を見出したものである。工芸の職人は、産地の分業制のもとで同じ作業を何日も繰り返す。分業であるために、一つ一つの作業は専門職となり腕が磨かれる。工芸の職人たちはこうした作業を根気強く行うことで匠への道を歩むことになる。そうして、個としての作品性を追求するものとは異なる、民による「民藝」というものが確立した。現代では、機械による大量生産品が溢れる中で、工芸の手業を魅力あるものとして取り上げられることも多くなってきたが、そうした手業の背景には、長い時間をかけた反復作業があり、そこにこそ手仕事の妙が隠されている。

反復から生まれる美

先日、とある陶芸家の方から、「薪を焚べる作業は反復作業だが、そうした繰り返しの作業の中にも、手で撫でるような丁寧さや優しさがある」という話を聞いた。何度も同じ動作を繰り返していると、いつしか自然に力みのない動作ができるようになる。しかし、それはただ何も考えずに行うようになるということではなく、むしろ「丁寧さ」や「優しさ」というものが自然に生まれるということなのかもしれない。これは日本の「余白」に価値を見出す美意識にも似ており、単調になりがちな単純作業こそ物事の基本であると捉え、そこに意味を見出していくのは、とても日本人らしい考え方とも言える。特に、天然素材を用いる工芸の世界では、反復作業は機械的なものには決してならず、むしろ些細な自然の変化に常に向き合う繊細な行いなのだ。

何事も、目的もなく反復するというのは、とても大変なものだ。これだけ物事が多様化する現代では、同じことを繰り返し続けることは、なお難しい。集中力も続かないであろうし、すぐにデジタルデバイスからは誘惑が降ってくる。しかし、目的を持ち、その行い自身が応用のための基本であると思えば、その行いの意味は大きく変わる。基本は物事の中心にあり、どんなときも疎かにしてはならない。基本的なものこそ、自らの物事に対する姿勢が映し出されている。そう考え、丁寧に行なってみる。それこそが、一つの道を極めることに繋がる。現代において、工芸から学ぶことは多くある。基本と反復というものも、その一つと言えよう。

文:柴田裕介