現代の工芸品の魅力の一つは「不揃いであること」と言って過言ではない。陶磁器であればろくろや窯変、木工品であれば木目、色糸であれば草木染めなどによって、世に二つとないものが生み出される。世の中は、大きく進歩し、画一的なものに囲まれた暮らしが当たり前になった。そんな中で、一点一点異なる工芸品というのは、特別な意味を持つようになってきた。

不揃いではあるが、不出来ではない。それが工芸のあるべき姿であろう。工芸の世界では、右が左に比べて優れているか劣っているかという価値基準があるわけではなく、あくまで個々一つ一つが美しいかどうかが求められる。もちろん、ガラスのコップであれば、気泡が多くあれば不具合品とみなすこともあるが、それ以上に触れ心地や飲み心地が良いかどうかが作品としての価値を大きく左右する。

私はデザインの経験があり、白紙の上の線が縦に真っ直ぐであるかどうかや、文字が真ん中にあるかどうかをすぐに気づくことができる。頭の中に「違和感のスイッチ」があるといっても良いかもしれない。ただ、工芸品を見て、二つの違いが気になるかというとそういうことはない。おそらく、一般の人々のほうが、そうした違和感に敏感だろうと思う。人も同じだが、隣と比べて良いか悪いか、どれほど揃っているかどうかという議論はさほど心地の良いものではない。不揃いであっても、そこに個別の美しさがあるかを見極められるかどうかが審美眼ではないかと思う。

ただ、工芸の世界において、手仕事だから、この程度で良いだろうという妥協も好ましくはない。大量生産品が主流を占める時代に、不揃いなものに価値を見出してもらうには、大量生産品には、負けない魅力を込める必要がある。不揃いであっても、個々の美を自信を持って語れるかどうか。そこに工芸としてのこだわりが必要なのだ。

現代の暮らしにおいて、無垢材の家具は贅沢なものになり、オートクチュールのドレスは希少になった。工芸品も同じく、その差異は小さくとも、世に二つとない個性を潜めている。それはつまり、作品一つ一つに向き合うことであり、その一つが壊れたら悲しいと思うことであろう。そんな気持ちが、物を大切に使うことの第一歩なのだ。

文:柴田裕介
作品:「信楽 茶椀 」/澤克典