煙が静かに立ち登り、薪窯から引き出された茶碗やぐい呑がずらりと並ぶ。その一つ一つは、釉薬が美しく溶け、見事な景色を生み出している。手に取り、じっくりと眺めれば、どこか別の土地を旅しているような、そんな気持ちになる。
陶芸の世界には「景色」という言葉があり、窯での焼成によって、胎土に釉薬が絶妙に被さり、実在する風景のような表情が生まれることがある。風景だけでなく、絵画や音楽、詩などが思い浮かぶような表情もあり、その感じ方や言葉での表現にも、鑑賞の魅力というものがある。美しい景色もあれば、薄暗い景色や深く考えさせられるような景色もある。この「景色」という言葉は、筆で描かれた絵付け作品や漆器、ガラス作品などには用いられず、釉薬表現を活かした陶磁器ならではの楽しみ方であると言える。
炎が生む景色
なぜ、やきものの表情を「景色」と呼ぶようになったのかは定かではないが、多くのやきものを見ていると、不思議とそのような言葉で表現したくなるものだ。茶の湯が生まれた時代には、当時、雑器とされていた器は、茶碗に見立て用いられた。そんな茶の湯の世界では、不完全のようにも映っていた罅や目跡を、何らかの景色と見ることで、特別に愛でたのであろう。
自然の景色は、太陽光の加減によってその表情が変化するが、やきものの景色は、炎によって生み出される。窯の中の予期しない変化は「窯変」と言い、釉薬の流れだけではなく、焦げや灰のかかり方によっても、異なる景色を見ることができる。手仕事と炎の共同作業による半自然美が、この「景色」という言葉に集約されている。
やきものの景色の楽しみ方
やきものの景色を楽しむには、置いて眺めることと、手で持って眺めることの二つの楽しみ方がある。置いて眺めるときには、光の当たり方にも注意したい。自然光でも、部屋の灯りでもよいので、作品を動かしながら、自分が最も美しいと感じる場所に置いてみてほしい。置いたときに、最も景色が印象的なのは、「胴」と呼ばれる側面の部分である。作家は、窯の中の置く位置や置き方によって、炎や灰がどのように作品に影響するかを考えながら、作品を焼く。狙い通りであることもあれば、予測しない窯変が偶然に起こることもあり、ここにやきものの神秘さがある。
手に持って鑑賞するというのも、工芸品ならではの楽しみの一つでもある。持つときには、やはり見込みと高台を眺めてみてほしい。碗の内側を意味する「見込み」は、抹茶や酒を入れると、違った景色が浮かび上がってくるときがある。特に、抹茶を入れたときに浮かび上がる景色には、「茶映り」という言葉があり、これは抹茶の色と見込みの色の調和や対比を楽しむものだ。また、高台は、やきものにとって、秘境のようなものでもある。名画の中に隠された秘密のサインのように、作り手の美意識が静かに埋め込まれていることが多い。
景色とは、見るものではなく、感じるもの
日常の中で景色を感じるのは、どんなときであろうか。一つは旅先であり、もう一つは日常の中のふとした瞬間であろう。旅に出ると、普段見ることのない景色が広がり、見るもの全てが美しく感じることがある。自然の風景だけでなく、街並みや行き交う人々の様子ですら、一つの景色のように見えることだろう。これこそが、旅の醍醐味であると言える。
もう一つの景色は、日常に潜んでいて、ふとした瞬間に訪れるものだ。虹や美しい朝焼けを偶然に見るときもあれば、日々の暮らしの中で、心を映し出したような景色に出会うこともある。どんな美しい風景も、そこに毎日住み、下を向いて歩いていれば、その景色を感ずることはなくなってしまう。私は、夕暮れ時に空が青く染まる時間である「ブルーアワー」の景色が好きなのだが、多くの人は、その存在にすら気づくことなく、足早に帰宅していく。景色というのは、どんな場所にでも存在するものだが、目の前に見えるものを「景色」と感じるには、心の余白が必要であり、見ることよりも、感じることによって、心に浮かびあがってくるのだろう。
やきものの景色も同じであって、見る者によっては、何一つ感じないこともあれば、心に響き渡るような感動を与えてくれることもある。手のひらにあるやきものの世界は小さいが、いつもそばに置いておくことのできる宝物にもなる。そうして、一つ一つのやきものをじっくりと楽しんでみてほしい。
文:柴田裕介