抹茶碗はなぜこれほど高価なものなのか。特に海外では、同じような形状の飯碗との値段差について、質問を受けることがとても多い。日本でも、「茶碗」というと一般的には飯碗を指すことが多いが、工芸や茶の世界では、その名の通り抹茶を飲むための碗のことを言い、特別な価値を持つものとして認識されている。

抹茶碗と飯碗との違い

まず始めにお伝えしておくと、抹茶碗の全てが高価なものということでは決してない。安価な抹茶碗も多数存在する。そんな中で、高価な抹茶碗とは何かとなれば、それは「鑑賞」に値する美的価値が備わっているかどうかということに尽きるだろう。高価な抹茶碗を手に取って、360度じっくりと眺めてみてほしい。見た目の美しさはもちろんのこと、手触りや重さなど、一般的な飯碗との多くの違いを感じるはずだ。そうした、人の美意識に働きかけるような茶碗は、芸術的な価値が備わっていると言える。よって、日常使いの飯碗よりも高価なのだというのが、基本的な説明になろうかと思う。

ただし、この美意識は、時代や文化、環境によっても大きく左右される。昔は、朝鮮半島で焼かれた雑器を日本に持ち帰り、茶の湯の茶碗として愛用することすらあった。この一説を考えれば、その美は、作品そのものに宿っているというよりは、使い手によって見出されるものなのだと言ってもよいのかもしれない。ここに、茶碗の面白さがある。

芸術の価値

本来、茶碗に限らず、芸術の価値というものは作者が決めるのではなく、受け手が決めるものであろう。音楽や小説は名作だからと言って高額になるわけではないし、歴史的な絵画も心に響かない人にとってはただの一枚の絵でしかない。ただし、絵画や彫刻の多くは、一点物であるが故に、その希少性から価格が高騰するものがある。それらは競売にかけられることも珍しくなく、作者の決めた価格で世に出回るというものでもない。茶碗も同じで、量産できるものは高額にはなり難いが、窯変などの不確実な変化によって、世に二つとないものを生み出す人気作家の茶碗は、高額になる傾向にある。例えば、日本の国宝となっている「曜変天目」の再現に挑む作家の作品は、その表現の難しさや希少性から、出来の良いものは高い価値を持つとされる。

自分半分、自然半分

茶碗の美には様々な捉え方があるが、私自身は、天然の材料に人の手仕事が加わり、そこにまた窯変などの偶然性が重なり生まれる美にこそ魅力があるのではないかと思っている。茶碗の作り手とお話しをすると、多くの作家が自然への愛着を持ち、自分自身の表現だけではなく、自然と調和したものづくりを心がけている方が多いことに気づく。目の前に生まれた茶碗は、「自分半分、自然半分によってできている」と考える方がとても多いのだ。そうした作家の視点にも学ぶべきことが多くある。

私は、茶碗は立体的な絵画のようなものだとも感じている。美しい絵画の前では、何時間も眺めていたい気持ちになることがあるが、良い茶碗も長く触れていたい気持ちになる。もちろん、茶碗は茶のために使う道具なのだが、その佇まいはどこか繊細で、それだけでは完結していないような印象を受ける。眺め、触れて、使いながら育つ美とでも言えば良いのだろうか。こうした芸術品は、眺めたり触れたりする際、その隙間に自分の心が映し出されたり、見透かされてるような気持ちになるものだ。今日見る茶碗と明日見る茶碗はきっと違う。そうした鏡のような面が茶碗にはある。

千利休が茶の湯を大成させたときから、400年以上が経とうとしているが、茶碗は日本の美意識を深く映し出した工芸品として、現在でも国内外で独特の存在感を放っている。工芸の世界に足を踏み入れた方には、自らの心を映し出してくれる素敵な茶碗に出逢ってほしい。それは、工芸ギャラリーを運営する人間としての一つのささやかな願いでもあるのだ。

文:柴田裕介
作品:加藤亮太郎「引出黒 茶碗」